碧巌録 / 第九十七則
明珠在掌 有功者賞胡漢不來 全無技倆伎倆既無波旬失途 瞿曇瞿曇識我也無復云。勘破了也。明珠在掌有功者賞。若有人持得此經。有功驗者。則以珠賞之。他得此珠。自然會用。胡來胡現。漢來漢現。萬象森羅。縱橫顯現。此是有功勳。法眼云。證佛地者。名持此經。此兩句頌公案畢。
新字:明珠在掌 有功者賞胡漢不来 全無技倆伎倆既無波旬失途 瞿曇瞿曇識我也無復云。勘破了也。明珠在掌有功者賞。若有人持得此経。有功験者。則以珠賞之。他得此珠。自然会用。胡来胡現。漢来漢現。万象森羅。縦横顕現。此是有功勲。法眼云。証仏地者。名持此経。此両句頌公案畢。
書き下し
明珠掌に在り、功有る者には賞す。胡漢来らず、全く伎倆無し。伎倆既に無くんば、波旬途を失す。瞿曇瞿曇、我を識るや也た無や。復た云く、「勘破し了れり」。明珠掌に在り、功有る者には賞すとは、若し人有りて此の経を持し得て、功験有る者には、則ち珠を以て之を賞す。他此の珠を得ば、自然に用ゐることを会す。胡来れば胡現じ、漢来れば漢現じ、万象森羅、縦横に顕現す。此れは是れ功勲有るなり。法眼云く、「仏地を証する者を、此の経を持すと名づく」。此の両句は公案を頌し畢る。
現代語訳
頌に言う。「明珠は掌の中にある。功ある者には褒美として与える。胡人も漢人も来なければ、まったく手立てはない。手立てがもはや無ければ、魔王波旬も道を見失う。瞿曇よ瞿曇よ、わたしが分かるか」。さらに言った。「見破ったぞ」。明珠が掌にあり、功ある者には賞として与えるとは、もしこの経を持つことができて功験のある人がいれば、その珠を褒美として与えるということである。その人はこの珠を得れば、おのずと使いこなすことができる。胡人が来れば胡人が映り、漢人が来れば漢人が映り、森羅万象がたてよこに現れる。これが功勲あるということである。法眼は「仏地を証した者を、この経を持つ者と名づける」と言った。この二句で公案を頌し尽くしている。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第九十七則金剛経に云く、「若し人の為に軽賤せらるれば、是の人は先世の罪業、応に悪道に堕すべきも、今世の人の軽賤するを以ての故に、先世の罪業則ち為に消滅す」。只だ平常の講究に拠れば、乃ち経中の常論なり。雪竇拈じ来つて這の意を頌す、教家の鬼窟裏の活計を打破せんと欲す。昭明太子此の一分を科して、能浄業障と為す。教中の大意は此の経の霊験を説く。此の如きの人は先世に地獄の業を造るも、善力強きが為に未だ受けず。今世の人の軽賤するを以ての故に、先世の罪業則ち為に消滅す。此の経故に能く無量劫来の罪業を消し、重を転じて軽と成し、軽を転じて受けず、復た仏果菩提を得。教家に拠れば、此の二十余張の経を転ずるを、便ち喚んで持経と作す。什麼の交渉か有らん。有る底は道ふ、「経自ら霊験有り」と。若し恁麼ならば、爾試みに一巻を将て閑処に放在して看よ、他感応有りや也た無や。法眼云く、「仏地を証する者を、此の経を持すと名づく」。経中に云く、「一切の諸仏、及び諸仏の阿耨多羅三藐三菩提の法は、皆此の経より出づ」。且く道へ、什麼を喚んでか此の経と作す。是れ黄巻赤軸底是なること莫しや。且く錯つて定盤星を認むること莫れ。
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『碧巌録』第九十七則胡漢来らず、全く伎倆無し。雪竇鼻孔を裂転す。也た胡漢来る有らば、則ち爾をして現ぜしむ。若し忽ち胡漢俱に来らざる時、又且つ如何。這裏に到りては、仏眼も也た覷れども見えず。且く道へ、是れ功勲か是れ罪業か、是れ胡か是れ漢か。直に羚羊の角を掛くるに似て、声響蹤跡は道ふこと莫れ、気息も也た無し。什麼の処に向いてか摸索せん。諸天をして花を捧ぐるに路無く、魔外をして潜かに覷ふに門無からしむるに至る。是の故に洞山和尚、一生院に住するに、土地神他の蹤跡を覓むれども見えず。一日厨前に米麺を抛撒す。洞山心を起して曰く、「常住の物色、何ぞ作践すること此の如くなるを得ん」。土地神遂に一見することを得て便ち礼拝す。雪竇道ふ、「伎倆既に無し」と。若し此の伎倆無き処に到らば、波旬も也た途を失せしむ。世尊は一切衆生を以て赤子と為す。若し一人有りて発心修行すれば、波旬の宮殿、之が為に振裂す。他便ち来りて修行者を悩乱す。雪竇道ふ、直饒ひ波旬恁麼に来るも、也た須らく途路を失却して近傍する処無からしむべしと。雪竇更に自ら胸を点じて云く、「瞿曇瞿曇、我を識るや也た無や」。是れ波旬と道ふこと莫れ、任是ひ仏来るも、還た我を識るや也た無や。釈迦老子すら尚自ほ見ず、諸人什麼の処に向いてか摸索せん。復た云く、「勘破し了れり」。且く道へ、是れ雪竇瞿曇を勘破するか、瞿曇雪竇を勘破するか。具眼の者試みに定当し看よ。
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『碧巌録』第九十七則圭峰四句の偈を科して云く、「凡そ所有る相は皆是れ虚妄なり。若し諸相の非相なるを見ば、即ち如来を見る」。此の四句偈の義は、全く仏地を証する者を此の経を持すと名づくに同じ。又道ふ、「若し色を以て我を見、音声を以て我を求むれば、是の人は邪道を行じ、如来を見ること能はず」。此も亦た是れ四句偈なり。但だ中間に其の義の全き者を取る。僧晦堂に問ふ、「如何なるか是れ四句偈」。晦堂云く、「話堕せることも也た知らず」。雪竇此の経の上に於て指出す。若し人有りて此の経を持せば、即ち是れ諸人の本地の風光、本来の面目なり。若し祖令の当行に拠らば、本地の風光、本来の面目も、亦た斬つて三段と為す。三世の諸仏、十二分教も一揑を消ひず。這裏に到りて、設使ひ万種の功能有るも、亦た管し得ること能はず。如今の人は只管に経を転じて、都て是れ箇の什麼の道理なるかを知らず。只管に道ふ、「我一日に多少を転じ得たり」と。只だ黄巻赤軸を認めて、行を巡り墨を数ふ。殊に知らず、全く自己の本心上より起ることを。這箇は唯だ是れ転処の些子なり。大珠和尚云く、「空屋裏に向いて数函の経を堆みて看よ、他光を放つや。只だ自家の一念発する底の心を以て是れ功徳とす」。何が故ぞ。万法は皆自心より出づ。一念是れ霊なり。既に霊なれば即ち通じ、既に通ずれば即ち変ず。古人道ふ、「青青たる翠竹は尽く是れ真如、欝欝たる黄花は般若に非ざる無し」と。若し見得て徹し去らば、即ち是れ真如なり。忽ち未だ見得せずんば、且く道へ、作麼生か喚んで真如と作す。華厳経に云く、「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば、応に法界の性を観ずべし、一切は唯心の造なり」。爾若し識得し去らば、境に逢ひ縁に遇ひて、主と為り宗と為らん。若し未だ明らめ得ること能はずんば、且く伏して処分を聴け。雪竇眼を出して大概を頌す。経の霊験を明かさんと要するなり。頌に云く、
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『碧巌録』第九十則他の古人の答処、許多の事無し。他は只だ其の意を借りて般若の光に答ふるなり。然も恁麼なりと雖も、他の意は言句上に在らず。自ら是れ後人、言句上に去いて活計を作す。見ずや、盤山道ふ、「心月孤り円かにして、光万象を呑む。光は境を照らすに非ず、境も亦た存するに非ず。光境俱に亡ず、復た是れ何物ぞ」と。如今の人、但だ眼を瞠りて喚んで光と作し、只だ情上に去いて解を生じ、空裏に橛を釘つ。古人道ふ、「汝等諸人、六根の門頭、昼夜に大光明を放ち、山河大地を照破す」と。只だ眼根の光を放つに止まらず、鼻舌身意も亦た皆な光を放つ。這裏に到つて、直に須らく六根を打畳して、下に一星の事も無く、浄裸裸、赤灑灑地にして、方に此の話の落処を見るべし。雪竇正に恁麼に頌出す。
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