碧巌録 / 第九十四則
全牛者出莊子。庖丁解牛。未甞見其全牛。順理而解。游刃自在。更不須下手。纔舉目時。頭角蹄肉。一時自解了。如是十九年。其刀利如新發於硎。謂之全牛。雖然如此奇特。雪竇道。縱使得如此。全象全牛與眼中瞖更不殊。從來作者共名摸。直是作家。也去裏頭摸索不著。自從迦葉。乃至西天此土祖師。天下老和尚。皆只是名摸。雪竇直截道。如今要見黃頭老。所以道。要見即便見。更要尋覓方見。則千里萬里也。黃頭老。乃黃面老子也。爾如今要見。剎剎塵塵在半途。尋常道。一塵一塵剎。一葉一釋迦。盡三千大千世界。所有微塵。只向一塵中見。當恁麼時。猶在半途。那邊更有半途在。且道在什麼處。釋迦老子。尚自不知。教山僧作麼生說得 瞖。
新字:全牛者出荘子。庖丁解牛。未甞見其全牛。順理而解。游刃自在。更不須下手。纔舉目時。頭角蹄肉。一時自解了。如是十九年。其刀利如新発於硎。謂之全牛。雖然如此奇特。雪竇道。縦使得如此。全象全牛与眼中瞖更不殊。従来作者共名摸。直是作家。也去裏頭摸索不著。自従迦葉。乃至西天此土祖師。天下老和尚。皆只是名摸。雪竇直截道。如今要見黄頭老。所以道。要見即便見。更要尋覓方見。則千里万里也。黄頭老。乃黄面老子也。爾如今要見。刹刹塵塵在半途。尋常道。一塵一塵刹。一葉一釈迦。尽三千大千世界。所有微塵。只向一塵中見。当恁麼時。猶在半途。那辺更有半途在。且道在什麼処。釈迦老子。尚自不知。教山僧作麼生説得 瞖。
書き下し
全牛は荘子に出づ。庖丁牛を解くに、未だ嘗て其の全牛を見ず。理に順つて解き、刃を游ばせて自在なり。更に手を下すことを須ひず。纔かに目を挙ぐる時、頭角蹄肉、一時に自ら解け了る。是の如くすること十九年、其の刀の利きこと新たに硎より発するが如し。之を全牛と謂ふ。然も此の如く奇特なりと雖も、雪竇道ふ、縦使ひ此の如くなるを得るも、全象全牛は眼中の瞖と更に殊ならず、と。従来の作者共に名摸す。直に是れ作家なるも、也た裏頭に去いて摸索し著かず。迦葉より、乃至西天此土の祖師、天下の老和尚、皆只だ是れ名摸す。雪竇直截に道ふ、如今黄頭老を見んと要せば、と。所以に道ふ、見んと要せば即便ち見よ、更に尋覓して方に見んと要せば、則ち千里万里なり、と。黄頭老は乃ち黄面老子なり。爾如今見んと要せば、刹刹塵塵半途に在り。尋常道ふ、一塵一塵刹、一葉一釈迦と。尽三千大千世界の所有微塵、只だ一塵中に向いて見る。恁麼の時に当りても、猶ほ半途に在り。那辺に更に半途有る在り。且く道へ、什麼の処にか在る。釈迦老子すら尚自ほ知らず、山僧をして作麼生か説き得しめん。瞖。
現代語訳
「全牛」は『荘子』に出ている。料理人の丁が牛を解体するとき、もはや牛の全体を見ることはなかった。筋目に従って解き、刃を自在に遊ばせて、ことさらに手を下す必要もない。目を向けただけで、頭も角も蹄も肉も一度におのずとばらばらになる。このようにして十九年、その刀は砥石から下ろしたばかりのように鋭かった。これを全牛という。しかし、このように見事であっても、雪竇は言う。たとえこのようになれたとしても、全体の象や全体の牛は、眼の中の翳とまったく変わりがない、と。「昔から作家たちはそろって手探りで名づけてきた」。たとえ作家であっても、その中に入って手探りしてもつかめない。迦葉から、インドと中国の祖師たち、天下の老和尚に至るまで、みなただ手探りで名づけてきたにすぎない。雪竇はずばりと言う。「今、黄頭の老人に会いたいと思うなら」。だから「見ようと思うならその場で見よ、さらに探し求めてから見ようとするなら、千里万里も隔たる」と言うのである。黄頭の老人とは黄面の老人、すなわち釈迦のことである。君が今会いたいと思うなら、「あらゆる国土、あらゆる塵がまだ道半ばである」。普段から「一つの塵に一つの国土、一枚の葉に一人の釈迦」と言う。三千大千世界にあるあらゆる微塵を、ただ一つの塵の中に見る。そのような時でもなお道半ばである。その向こうにさらに道半ばがある。さて言ってみよ、それはどこにあるのか。釈迦老人ですら知らないのに、わたしにどう説けというのか。(瞖。)
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第九十四則全象全牛、瞖に殊ならず、従来の作者共に名模す。如今黄頭老を見んと要せば、刹刹塵塵半途に在り。全象全牛、瞖に殊ならず。衆盲象を摸して、各異端を説く、涅槃経に出づ。僧仰山に問ふ、「和尚人の禅を問ひ道を問ふを見て、便ち一円相を作し、中に於て牛の字を書す。意何くにか在る」。仰山云く、「這箇も也た是れ閑事なり。忽若し会得せば、外より来らず。忽若し会せずんば、決定して識らず。我且く爾に問ふ、諸方の老宿、爾が身上に於て、那箇か是れ爾が仏性と指出す。為復語る底が是か、黙する底が是か、是れ語らず黙せざる底が是なること莫しや。為復総て是か、為復総て不是か。爾若し語る底を是と認めば、盲人の象の尾を摸著するが如し。若し黙する底を是と認めば、盲人の象の耳を摸著するが如し。若し語らず黙せざる底を是と認めば、盲人の象の鼻を摸著するが如し。若し物物都て是と道はば、盲人の象の四足を摸著するが如し。若し総て不是と道はば、本象を抛つて空見に落在す。是の如きの衆盲の所見は、只だ象の上に於て名邈差別す。爾好からんと要せば、切に象を摸すること莫れ。見覚是と道ふこと莫れ、亦た不是と道ふこと莫れ」。祖師云く、「菩提本樹無し、明鏡も亦た台無し。本来無一物、争でか塵埃に染まん」。又云く、「道は本形相無し、智慧即ち是れ道なり。此の見解を作す者、是れを真般若と名づく」。明眼の人は象を見て其の全体を得。仏の性を見るも亦た然るが如し。
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『碧巌録』第十則人の虎頭に騎るが如きは、須らく是れ手中に刀有り、兼ねて転変有つて始めて得べし。雪竇道ふ、「若し恁麼ならば、二り倶に瞎漢と成る」。雪竇は天に倚る長剣に似て、凜凜として全威あり。若し雪竇の意を会得せば、自然に千処万処一時に会せん。便ち見ん、他の雪竇の後面の頌は、只だ是れ注脚を下すのみなることを。又道ふ、「誰か瞎漢」。且く道へ、是れ賓家瞎か、是れ主家瞎か、是れ賓主一時に瞎なること莫しや。「拈じ来つて天下に人の与に看せしむ」、此れは是れ活処なり。雪竇一時に頌し了れり。什麼としてか却つて道ふ、「拈じ来つて天下に人の与に看せしむ」と。且く道へ、作麼生か看ん。眼を開くも也た著し、眼を合するも也た著す。還つて人の免れ得る有りや。
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『碧巌録』第九十七則胡漢来らず、全く伎倆無し。雪竇鼻孔を裂転す。也た胡漢来る有らば、則ち爾をして現ぜしむ。若し忽ち胡漢俱に来らざる時、又且つ如何。這裏に到りては、仏眼も也た覷れども見えず。且く道へ、是れ功勲か是れ罪業か、是れ胡か是れ漢か。直に羚羊の角を掛くるに似て、声響蹤跡は道ふこと莫れ、気息も也た無し。什麼の処に向いてか摸索せん。諸天をして花を捧ぐるに路無く、魔外をして潜かに覷ふに門無からしむるに至る。是の故に洞山和尚、一生院に住するに、土地神他の蹤跡を覓むれども見えず。一日厨前に米麺を抛撒す。洞山心を起して曰く、「常住の物色、何ぞ作践すること此の如くなるを得ん」。土地神遂に一見することを得て便ち礼拝す。雪竇道ふ、「伎倆既に無し」と。若し此の伎倆無き処に到らば、波旬も也た途を失せしむ。世尊は一切衆生を以て赤子と為す。若し一人有りて発心修行すれば、波旬の宮殿、之が為に振裂す。他便ち来りて修行者を悩乱す。雪竇道ふ、直饒ひ波旬恁麼に来るも、也た須らく途路を失却して近傍する処無からしむべしと。雪竇更に自ら胸を点じて云く、「瞿曇瞿曇、我を識るや也た無や」。是れ波旬と道ふこと莫れ、任是ひ仏来るも、還た我を識るや也た無や。釈迦老子すら尚自ほ見ず、諸人什麼の処に向いてか摸索せん。復た云く、「勘破し了れり」。且く道へ、是れ雪竇瞿曇を勘破するか、瞿曇雪竇を勘破するか。具眼の者試みに定当し看よ。
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『碧巌録』第四十二則「雪団打、雪団打、龐老の機関把るべき没し」。雪竇は居士の頭上に在つて行かんことを要す。古人雪を以て一色辺の事を明かす。雪竇の意に道ふ、当時若し雪団を握つて打たば、居士縦ひ如何なる機関有るも、亦た搆へ得難しと。雪竇自ら他の打処を誇る。殊に知らず落節の処有ることを。「天上人間自ら知らず、眼裏耳裏絶えて瀟灑」。眼裏も也た是れ雪、耳裏も也た是れ雪、正に一色辺に住在す。亦た之を普賢境界一色辺の事と謂ひ、亦た之を打成一片と謂ふ。雲門道ふ、「直に尽乾坤大地、繊毫の過患無きことを得るも、猶ほ転句と為す。一色を見ざる、始めて是れ半提。若し全提を要せば、須らく向上の一路有ることを知りて始めて得べし」。這裏に到つて須らく是れ大用現前して、針箚せども入らず、他人の処分を聴かざるべし。所以に道ふ、「他は活句に参じて、死句に参ぜず」。古人道ふ、「一句合頭の語、万劫の繋驢橛」。什麼の用処か有らん。雪竇此に到つて頌殺し了つて、復た機を転じて道ふ、「只だ此の瀟灑絶、直饒是れ碧眼の胡僧も也た弁別し難し」。碧眼の胡僧すら尚ほ弁別し難し、更に山僧をして箇の什麼をか説かしめん。
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『碧巌録』第五則雪竇自然に他の古人を見る、只だ他の命脈上に去いて一劄を消して、他の与に頌出す。「牛頭没し馬頭回る」。且く道へ、箇の什麼をか説く。見得透する底は、早朝に粥を喫し、斎時に飯を喫するが如くに相似たり、只だ是れ尋常なり。雪竇慈悲、当頭に一鎚に撃砕し、一句に截断す。只だ是れ妨げず孤峻なることを。石火を撃つが如く閃電光に似たり。鋒鋩を露はさず、爾が湊泊の処無し。且く道へ、意根下に向つて摸索し得んや。此の両句一時に道ひ尽し了れり。雪竇第三句、却つて一線道を通じて、略ぼ些かの風規を露はす。早く是れ落草なり。第四句、直下に更に是れ落草なり。若し言上に言を生じ、句上に句を生じ、意上に意を生じて、解を作し会を作さば、唯だ老僧を帯累するのみにあらず、亦乃ち雪竇に辜負せん。古人の句は此の如くなりと雖も、意は此の如くならず。終に道理を作して人を繋縛せず。「曹渓鏡裏塵埃を絶す」。多少の人か道ふ、「静心便ち是れ鏡」と。且喜すらくは没交渉。只管に計較道理を作す、什麼の了期か有らん。這箇は是れ本分の説話、山僧敢へて本分に依らずんばあらず。「牛頭没し馬頭回る」、雪竇分明に説き了れり。自ら是れ人見ず。所以に雪竇此の如く郎当として頌して道ふ、「鼓を打つて看来れども君見ず」。癡人還た見るや。更に爾に向つて道ふ、「百花春至つて誰が為にか開く」。謂つべし戸牖を豁開して、爾が与に一時に八字に打開し了れりと。春来るに及んで、幽谷野澗、乃至人無き処にも、百花競ひ発く。爾且く道へ、更に誰が為にか開く。
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『碧巌録』第八十六則自ら照らして孤明を列ね、君が為に一線を通ず。花謝して樹に影無し、看る時誰か見ざる。見るも見ず、倒に牛に騎つて仏殿に入る。自ら照らして孤明を列ぬとは、自家の脚跟下に本と此の一段の光明有り、只だ是れ尋常用ゐ得て暗し。所以に雲門大師、爾が与に此の光明を羅列して爾が面前に在らしむ。且く作麼生か是れ諸人の光明。厨庫三門。此れは是れ雲門の孤明を列ぬる処なり。盤山道ふ、「心月孤り円かにして、光万像を呑む」と。這箇便ち是れ真常独露なり。然る後に君が与に一線を通ず。亦た人の厨庫三門の処に著在せんことを怕る。厨庫三門は則ち且く従却す。朝花も亦た謝し、樹も亦た影無く、日も又た落ち、月も又た暗く、尽乾坤大地、黒漫漫地なり。諸人還た見るや。看る時誰か見ざる。且く道へ、是れ誰か見ざる。這裏に到つて、明中に当たつて暗有り、暗中に明有り、皆な前後の歩の如く自ら見る可し。雪竇道ふ、「見るも見ず」と。「好事も無きには如かず」を頌す。合に見るべくして又た見ず、合に明らかなるべくして又た明らかならず。倒に牛に騎つて仏殿に入る、黒漆桶裏に入り去るなり。須らく是れ爾自ら牛に騎つて仏殿に入り、看て道ふべし、是れ箇の什麼の道理ぞと。
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