碧巌録 / 第九十則
人天從此見空生。不見須菩提巖中宴坐。諸天雨花讚歎。尊者云。空中雨花讚歎。復是何人。天云。我是梵天。尊者云。汝云何讚歎。天云。我重尊者善說般若波羅蜜多。尊者云。我於般若未甞說一字。汝云何讚歎。天云。尊者無說。我乃無聞。無說無聞是真般若。又復動地雨花。看他須菩提善說般若。且不說體用。若於此見得。便可見智門道蚌含明月兔子懷胎。古人意雖不在言句上。爭奈答處有深深之旨。惹得雪竇道蚌含玄兔深深意。到這裏曾與禪家作戰爭。天下禪和子。鬧浩浩地商量。未甞有一人夢見在。若要與智門雪竇同參。也須是自著眼始得。
新字:人天従此見空生。不見須菩提巖中宴坐。諸天雨花讃嘆。尊者云。空中雨花讃嘆。復是何人。天云。我是梵天。尊者云。汝云何讃嘆。天云。我重尊者善説般若波羅蜜多。尊者云。我於般若未甞説一字。汝云何讃嘆。天云。尊者無説。我乃無聞。無説無聞是真般若。又復動地雨花。看他須菩提善説般若。且不説体用。若於此見得。便可見智門道蚌含明月兔子懐胎。古人意雖不在言句上。争奈答処有深深之旨。惹得雪竇道蚌含玄兔深深意。到這裏曽与禅家作戦争。天下禅和子。鬧浩浩地商量。未甞有一人夢見在。若要与智門雪竇同参。也須是自著眼始得。
書き下し
人天此より空生を見る。見ずや、須菩提、巌中に宴坐す。諸天花を雨らして讃歎す。尊者云く、「空中に花を雨らして讃歎するは、復た是れ何人ぞ」。天云く、「我は是れ梵天なり」。尊者云く、「汝云何が讃歎する」。天云く、「我れ尊者の善く般若波羅蜜多を説くことを重んず」。尊者云く、「我れ般若に於て未だ嘗て一字をも説かず、汝云何が讃歎する」。天云く、「尊者は説くこと無く、我は乃ち聞くこと無し。無説無聞、是れ真の般若なり」。又た復た地を動かし花を雨らす。看よ他の須菩提、善く般若を説き、且く体用を説かず。若し此に於て見得せば、便ち智門の「蚌、明月を含む」「兔子、胎を懐む」と道ふを見る可し。古人の意は言句上に在らずと雖も、争奈せん答処に深深の旨有ることを。雪竇を惹き得て「蚌は玄兔を含む深深の意」と道はしむ。這裏に到つて曾て禅家の与に戦争を作す。天下の禅和子、鬧浩浩地に商量すれども、未だ嘗て一人の夢見ること有らざること在り。若し智門・雪竇と同参せんと要せば、也た須らく是れ自ら眼を著けて始めて得べし。
現代語訳
人も天もここから須菩提(空生)を見る、とは、知らないか、須菩提が岩窟の中で静かに坐っていると、天人たちが花を降らせて讃えた。尊者は「空から花を降らせて讃えるのは、いったい誰か」と言った。天人は「わたしは梵天です」と言った。尊者は「おまえはなぜ讃えるのか」と言った。天人は「わたしは尊者が般若波羅蜜多を見事に説かれることを尊ぶのです」と言った。尊者は「わたしは般若について、まだ一字も説いたことがない。おまえはなぜ讃えるのか」と言った。天人は「尊者は説くことなく、わたしは聞くことがありません。説くことも聞くこともない、これこそ真の般若です」と言って、さらに大地を揺るがし花を降らせた。見よ、須菩提は般若を見事に説きながら、体も用も説いていない。もしここで見て取れたなら、智門が「蚌が明月を含む」「兎が子を身ごもる」と言ったことも見えるだろう。古人の意は言葉の上にはないとはいえ、あいにくその答えには深い深い趣旨がある。それが雪竇を引き出して「蚌が玄き兎を含むという深い深い意」と言わせたのである。ここに至って、かつて禅僧たちのために戦をひき起こした。天下の禅僧たちは騒がしく論じ合ったが、まだ一人も夢に見た者はいない。もし智門や雪竇と肩を並べて参じたいなら、自分で眼をつけてこそよい。
解説
この章句が説くこと
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『碧巌録』第六十五則此の事若し言句上に在らば、三乗十二分教、豈に是れ言句無からんや。或いは無言便ち是なりと道はば、又何ぞ祖師西来を消ひて什麼をか作さん。只だ従上来の許多の公案の如き、畢竟如何にか其の下落を見ん。這の一則の公案、話会する者少なからず。有る底は喚んで良久と作し、有る底は喚んで拠坐と作し、有る底は喚んで黙然不対と作す。且喜すらくは没交渉なることを。幾曾か摸索し得著し来たらん。此の事其の実、言句上に在らず、亦言句の中を離れず。若し稍擬議有らば、則ち千里万里去らん。看よ他の外道省悟して後、方に知る、亦此に在らず、亦彼に在らず、亦是に在らず、亦不是に在らざることを。且く道へ是れ箇の什麼ぞ。天衣懐和尚頌して云く、「維摩は黙せず良久せず、拠坐して商量すれば過咎と成る。吹毛の匣裏冷光寒く、外道天魔皆拱手す」と。百丈常和尚、法眼に参ず。眼、此の話を看せしむ。法眼一日問ふ、「爾什麼の因縁をか看る」。常云く、「外道問仏の話」。眼云く、「爾試みに挙し看よ」。常、口を開かんと擬す。眼云く、「住めよ住めよ、爾良久の処に向かつて会せんと擬するや」。常、言下に於いて忽然として大悟す。後に示衆して云く、「百丈に三訣有り、喫茶、珍重、歇。擬議して更に思量せば、知る君が猶ほ未だ徹せざることを」と。
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