呻吟語 / 内篇・談道・言ふ無きは即ち隱す無し
「予欲無言」,非雅言也,言之所不能顯者也。「吾無隱爾」,非文辭也,性與天道也。說便說不來,藏也藏不得,然則無言即無隱也,在學者之自悟耳。天地何嘗言?何嘗隱?以是知不可言傳者,皆日用流行於事物者也。
新字:「予欲無言」,非雅言也,言之所不能顕者也。「吾無隠爾」,非文辞也,性与天道也。説便説不来,蔵也蔵不得,然則無言即無隠也,在学者之自悟耳。天地何嘗言?何嘗隠?以是知不可言伝者,皆日用流行於事物者也。
書き下し
「予言ふこと無からんと欲す」とは、雅言に非ず、言の顯はす能はざる所の者なり。「吾隱す無きのみ」とは、文辭に非ず、性と天道なり。說かんとすれば便ち說き來たらず、藏さんとすれば也た藏し得ず。然らば則ち言ふ無きは即ち隱す無きなり。學者の自ら悟るに在るのみ。天地何ぞ嘗て言はん、何ぞ嘗て隱さん。是を以て知る、言もて傳ふ可からざる者は、皆な日用事物に流行する者なることを。
現代語訳
孔子が私は何も言うまいと言ったのは、格式ばった言葉のことではなく、言葉では表せないもののことです。私は何も隠していないと言ったのは、文章のことではなく、人の本性と天の道のことです。説こうとしても説けず、隠そうとしても隠せない。だから言わないことがそのまま隠さないことなのです。あとは学ぶ者が自分で悟るしかありません。天地はいつ語り、いつ隠したでしょうか。だから、言葉で伝えられないものは、みな日々の暮らしと物事の中に流れているのだとわかります。
解説
論語の二つの言葉を並べて、沈黙と開示が同じことだと読み解きます。隠しているから言わないのではなく、言葉に乗らないから言えないだけで、当のものは日々の暮らしの中に丸見えで流れている。天地が何も語らないのに何も隠していないのと同じです。教えてもらえないと嘆く前に、目の前の生活を見よという促しになっています。
この章句が説くこと
言葉沈黙日用天道悟り
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