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碧巌録 / 第八十九則

雪竇以帝網珠。垂示事事無礙法界。然六相義甚明白。即總即別。即同即異。即成即壞。舉一相則六相俱該。但為眾生日用而不知。雪竇拈帝網明珠。垂範況此大悲話。直是如此。爾若善能向此珠網中。明得拄杖子。神通妙用。出入無礙。方可見得手眼。所以雪竇云。棒頭手眼從何起。教爾棒頭取證喝下承當。只如德山入門便棒。且道手眼在什麼處。臨濟入門便喝。且道手眼在什麼處。且道雪竇末後。為什麼更著箇咄字參。

新字:雪竇以帝網珠。垂示事事無礙法界。然六相義甚明白。即総即別。即同即異。即成即壊。舉一相則六相倶該。但為衆生日用而不知。雪竇拈帝網明珠。垂範況此大悲話。直是如此。爾若善能向此珠網中。明得拄杖子。神通妙用。出入無礙。方可見得手眼。所以雪竇云。棒頭手眼従何起。教爾棒頭取証喝下承当。只如徳山入門便棒。且道手眼在什麼処。臨済入門便喝。且道手眼在什麼処。且道雪竇末後。為什麼更著箇咄字参。

書き下し

雪竇は帝網珠を以て、事事無礙法界を垂示す。然も六相の義甚だ明白なり。即総即別、即同即異、即成即壊、一相を挙ぐれば則ち六相俱に該ぬ。但だ衆生日に用ゐて知らざるが為なり。雪竇、帝網明珠を拈じて範を垂れ、此の大悲の話に況ふ。直に是れ此の如し。爾若し善く能く此の珠網の中に向つて拄杖子を明らめ得て、神通妙用、出入無礙ならば、方に手眼を見得す可し。所以に雪竇云く、「棒頭の手眼何れより起こる」と。爾をして棒頭に証を取り、喝下に承当せしむ。只だ徳山の入門便棒の如き、且く道へ、手眼什麼の処にか在る。臨済の入門便喝、且く道へ、手眼什麼の処にか在る。且く道へ、雪竇末後に什麼と為てか更に箇の咄の字を著くる。参ぜよ。

現代語訳

雪竇は帝網の珠によって事事無礙法界を示した。しかも六相の義が実にはっきりしている。総であり別であり、同であり異であり、成であり壊である。一つの相を挙げれば六つの相がみな備わる。ただ衆生は毎日用いていながら、それを知らないだけである。雪竇は帝網の明珠を取り上げて手本を示し、この大悲の話になぞらえた。まさにこのとおりである。君がもしこの珠の網の中で拄杖を明らかにでき、神通のはたらきが出入り自在になったなら、そこではじめて手と眼を見て取ることができる。だから雪竇は「棒の先の手と眼はどこから起こるのか」と言う。君に棒の先で証を取り、喝のもとで引き受けさせようというのだ。徳山は門を入るなり棒で打ったが、さあ言ってみよ、手と眼はどこにあるか。臨済は門を入るなり喝を浴びせたが、さあ言ってみよ、手と眼はどこにあるか。さあ言ってみよ、雪竇は最後になぜさらに「咄」の一字をつけたのか。参じてみよ。

解説

圜悟の頌評唱の結びである。雪竇は帝網の珠で事事無礙法界を示し、そこには総別・同異・成壊の六相がすべて備わる。衆生は毎日それを用いながら知らないだけだと圜悟は言う。そして珠の網の中で拄杖を明らかにし、出入り自在になってはじめて千手観音の手眼が見えると述べる。雪竇の「棒頭の手眼何れより起こる」は、徳山の棒、臨済の喝の只中でそれを掴めという意である。最後に雪竇が添えた「咄」の一字は何のためかと、圜悟は答えずに読み手に返す。理論を理解した後に、日々の一撃の中で実際に働かせることこそが問われるのである。

この章句が説くこと

公案手眼自由六相徳山臨済

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