碧巌録 / 第八十九則
君不見。網珠垂範影重重。雪竇引帝網明珠。以用垂範。手眼且道落在什麼處。華嚴宗中。立四法界。一理法界。明一味平等故。二事法界。明全理成事故。三理事無礙法界。明理事相融大小無礙故。四事事無礙法界。明一事遍入一切事。一切事遍攝一切事。同時交參無礙故。所以道。一塵纔舉大地全收。一一塵含無邊法界。一塵既爾諸塵亦然。網珠者。乃天帝釋善法堂前。以摩尼珠為網。凡一珠中映現百千珠。而百千珠俱現一珠中。交映重重。主伴無盡。此用明事事無礙法界也。昔賢首國師。立為鏡燈諭。圓列十鏡。中設一燈。若看東鏡。則九鏡鏡燈歷然齊現。若看南鏡則鏡鏡如然。所以世尊初成正覺。不離菩提道場。而遍昇忉利諸天。乃至於一切處。七處九會。說華嚴經。
新字:君不見。網珠垂範影重重。雪竇引帝網明珠。以用垂範。手眼且道落在什麼処。華厳宗中。立四法界。一理法界。明一味平等故。二事法界。明全理成事故。三理事無礙法界。明理事相融大小無礙故。四事事無礙法界。明一事遍入一切事。一切事遍摂一切事。同時交参無礙故。所以道。一塵纔舉大地全収。一一塵含無辺法界。一塵既爾諸塵亦然。網珠者。乃天帝釈善法堂前。以摩尼珠為網。凡一珠中映現百千珠。而百千珠倶現一珠中。交映重重。主伴無尽。此用明事事無礙法界也。昔賢首国師。立為鏡灯諭。円列十鏡。中設一灯。若看東鏡。則九鏡鏡灯歴然斉現。若看南鏡則鏡鏡如然。所以世尊初成正覚。不離菩提道場。而遍昇忉利諸天。乃至於一切処。七処九会。説華厳経。
書き下し
君見ずや、網珠垂範して影重重。雪竇は帝網の明珠を引いて、以て用ゐて範を垂る。手眼、且く道へ、什麼の処にか落在す。華厳宗の中に四法界を立つ。一に理法界、一味平等を明かすが故に。二に事法界、全理事を成ずることを明かすが故に。三に理事無礙法界、理事相融じて大小無礙なることを明かすが故に。四に事事無礙法界、一事遍く一切事に入り、一切事遍く一切事を摂し、同時に交参して無礙なることを明かすが故に。所以に道ふ、「一塵纔かに挙ぐれば大地全く収まる。一一の塵に無辺の法界を含む。一塵既に爾り、諸塵も亦た然り」と。網珠とは、乃ち天帝釈の善法堂の前に、摩尼珠を以て網と為す。凡そ一珠の中に百千の珠を映現し、而して百千の珠俱に一珠の中に現じ、交映重重、主伴無尽なり。此れ用ゐて事事無礙法界を明かすなり。昔、賢首国師、立てて鏡灯の諭と為す。円かに十鏡を列ね、中に一灯を設く。若し東の鏡を看れば、則ち九鏡の鏡灯歴然として斉しく現ず。若し南の鏡を看れば、則ち鏡鏡如然たり。所以に世尊初めて正覚を成じ、菩提道場を離れずして、遍く忉利の諸天に昇り、乃至一切処に於て、七処九会に華厳経を説く。
現代語訳
君は知らないか、帝釈の網の珠が手本を垂れて影が幾重にも映り合う、とは、雪竇が帝釈天の網の明珠を引いて、手本として示したのである。さあ言ってみよ、手と眼はどこに落ち着くのか。華厳宗では四つの法界を立てる。一つは理法界で、一味平等であることを明らかにする。二つは事法界で、理がまるごと事となっていることを明らかにする。三つは理事無礙法界で、理と事とが互いに融け合い、大小が妨げ合わないことを明らかにする。四つは事事無礙法界で、一つの事があまねく一切の事に入り、一切の事があまねく一切の事を収め、同時に交わり合って妨げがないことを明らかにする。だから「一つの塵をわずかに挙げれば大地がまるごと収まる。一つ一つの塵に限りない法界を含む。一つの塵がそうであれば、もろもろの塵もまたそうである」と言う。網の珠とは、帝釈天の善法堂の前に摩尼珠で網を作ってあり、一つの珠の中に百千の珠が映り、百千の珠がみな一つの珠の中に現れて、幾重にも映り合い、主と伴とが尽きることがない。これを用いて事事無礙法界を明らかにするのである。昔、賢首国師はこれを鏡と灯のたとえとした。十の鏡を円く並べ、真ん中に一つの灯を置く。東の鏡を見れば、他の九つの鏡とそこに映る灯がありありと一斉に現れる。南の鏡を見ても、どの鏡もまた同じである。だから世尊は初めて正覚を成就した時、菩提の道場を離れないまま、あまねく忉利天などの天界に昇り、さらにはあらゆる処で、七つの場所九つの会座において『華厳経』を説いたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第八十九則雪竇は帝網珠を以て、事事無礙法界を垂示す。然も六相の義甚だ明白なり。即総即別、即同即異、即成即壊、一相を挙ぐれば則ち六相俱に該ぬ。但だ衆生日に用ゐて知らざるが為なり。雪竇、帝網明珠を拈じて範を垂れ、此の大悲の話に況ふ。直に是れ此の如し。爾若し善く能く此の珠網の中に向つて拄杖子を明らめ得て、神通妙用、出入無礙ならば、方に手眼を見得す可し。所以に雪竇云く、「棒頭の手眼何れより起こる」と。爾をして棒頭に証を取り、喝下に承当せしむ。只だ徳山の入門便棒の如き、且く道へ、手眼什麼の処にか在る。臨済の入門便喝、且く道へ、手眼什麼の処にか在る。且く道へ、雪竇末後に什麼と為てか更に箇の咄の字を著くる。参ぜよ。
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『十善法語』巻第九・不瞋恚戒一微塵ノ中。此法門アリテ大小麁細互ニ融シ。三世起滅互ニ摂ス。一世界ノ中此法門アリテ三世互ニ摂シ。麁細互ニ融ス。一切世界ノ中此法門アリテ麁細互ニ融シ。三世互ニ摂ス。経中ニ毛孔ニ世界ヲ含スト。維摩居士カ方丈室中ニ八万四千ノ師子座ヲ容ト。劫数ヲ食頃ニ経ト。有志ノ者ハ法ノ趣ヲ知ルヘキコトシヤ。世ノ愚痴ナル者ハ。凡夫カ功徳満足シテ聖域ニ入ルコトヲ。蝮蜻カ蟬ニナリ。蝸牛カ柱ヲツタヒ軒ヲツタフテ屋ニ登ル如クト思フハ不是シヤ。若軽躁ナルモノ空腹高心ニ是心是仏ト説キ。煩悩即菩提ト説ハ不是シヤ。衆生界ノ外別ニ仏界アルニ非ス。仏界ノ外ニ衆生界アルニ非ス。仏界ト衆生界ト元来一異ヲ云ヘカラス。迷フ者ハ諸仏ノ無上正覚ノ中ニ居テ三毒ヲ起ス。此三毒衆生ヲ悩乱スルコト。屠者ノ鮮肉ヲ焼煮スルカ如シ。諸仏ハ常ニ衆生三毒ノ中ニ在テ。無漏大定智悲ニ安住ス。此無漏大定智悲。衆生界ニ応現シテ。月ノ万水ニ影ヲウツス如クシヤ。
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『十善法語』巻第三・不邪婬戒此法広大ニシテ一切ノコサヌ。在家ハ在家ノ道アルシヤ。出家ハ出家ノ道アルシヤ。大心ノ衆生ハ大心ノ道アルシヤ。小心ノ衆生ハ小心ノ道アルシヤ。王者ハ王者ノ道アル。后妃ハ后妃ノ道アル。臣庶ハ臣庶ノ道アル。居士ハ居士ノ道アルシヤ。華厳ノ入法界品ニ。念仏三昧ノ比丘アリ。童蒙ニ字母ヲ教ル先生アリ。厳烈ニ罪人ヲ治スル王者アリ。ヨク香類ヲ分別スル長者アリ。海中ノ消息ヲ知ル船師アリ。其夫ヲ一心ニ瞻仰スル貞婦アリ。火坑劒林ヲ設クル等ノ外道アリシヤ。一端ヲ以テ尽スヘキコトテナイ。密教事相ノ中ニハ。種種ノ本尊。種種ノ壇法。世間所有ノ事。悉ク此法ノ中ニ説クシヤ。
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『碧巌録』第九十七則圭峰四句の偈を科して云く、「凡そ所有る相は皆是れ虚妄なり。若し諸相の非相なるを見ば、即ち如来を見る」。此の四句偈の義は、全く仏地を証する者を此の経を持すと名づくに同じ。又道ふ、「若し色を以て我を見、音声を以て我を求むれば、是の人は邪道を行じ、如来を見ること能はず」。此も亦た是れ四句偈なり。但だ中間に其の義の全き者を取る。僧晦堂に問ふ、「如何なるか是れ四句偈」。晦堂云く、「話堕せることも也た知らず」。雪竇此の経の上に於て指出す。若し人有りて此の経を持せば、即ち是れ諸人の本地の風光、本来の面目なり。若し祖令の当行に拠らば、本地の風光、本来の面目も、亦た斬つて三段と為す。三世の諸仏、十二分教も一揑を消ひず。這裏に到りて、設使ひ万種の功能有るも、亦た管し得ること能はず。如今の人は只管に経を転じて、都て是れ箇の什麼の道理なるかを知らず。只管に道ふ、「我一日に多少を転じ得たり」と。只だ黄巻赤軸を認めて、行を巡り墨を数ふ。殊に知らず、全く自己の本心上より起ることを。這箇は唯だ是れ転処の些子なり。大珠和尚云く、「空屋裏に向いて数函の経を堆みて看よ、他光を放つや。只だ自家の一念発する底の心を以て是れ功徳とす」。何が故ぞ。万法は皆自心より出づ。一念是れ霊なり。既に霊なれば即ち通じ、既に通ずれば即ち変ず。古人道ふ、「青青たる翠竹は尽く是れ真如、欝欝たる黄花は般若に非ざる無し」と。若し見得て徹し去らば、即ち是れ真如なり。忽ち未だ見得せずんば、且く道へ、作麼生か喚んで真如と作す。華厳経に云く、「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば、応に法界の性を観ずべし、一切は唯心の造なり」。爾若し識得し去らば、境に逢ひ縁に遇ひて、主と為り宗と為らん。若し未だ明らめ得ること能はずんば、且く伏して処分を聴け。雪竇眼を出して大概を頌す。経の霊験を明かさんと要するなり。頌に云く、
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『碧巌録』第八十九則遍身是、通身是、拈じ来れば猶ほ較たること十万里。翅を展べて鵬は騰る六合の雲、風を搏ち鼓蕩す四溟の水。是れ何の埃壒か忽ち生ずる、那箇の毫釐か未だ止まざる。君見ずや、網珠垂範して影重重、棒頭の手眼何れより起こる。咄。〔壒〕遍身是、通身是。若し手を背にして枕子を摸る底を便ち是なりと道ひ、手を以て身を摸る底を便ち是なりと道はば、若し恁麼の見解を作さば、尽く鬼窟裏に向つて活計を作す。畢竟遍身も通身も都て是ならず。若し情識を以て去いて他の大悲の話を見んと要せば、直に是れ猶ほ較たること十万里。雪竇一句の活道を弄し得て、拈じ来れば猶ほ較たること十万里と。後の句は雲巌・道吾の奇特の処を頌して云く、「翅を展べて鵬は騰る六合の雲、風を搏ち鼓蕩す四溟の水」と。大鵬は龍を呑むに、翼を以て風を搏ち浪を鼓し、其の水開くこと三千里、遂に龍を取つて之を呑む。雪竇道ふ、爾若し大鵬の能く風を搏ち浪を鼓するが如きは、也た太殺だ雄壮なり。若し大悲の千手眼を以て之を観れば、只だ是れ些子の塵埃の忽ち生ずるに相似たり。又た一毫釐の風吹いて未だ止まざるに似て相似たり。雪竇道ふ、爾若し手を以て身を摸りて用ゐて手眼と作さば、何の用にか作すに堪へん。是に於て大悲の話上に、直に是れ未在なり。所以に道ふ、「是れ何の埃壒か忽ち生ずる、那箇の毫釐か未だ止まざる」と。雪竇自ら作家と謂ひ、一時に迹を払ひ了る。争奈せん、後面依旧として漏逗し、箇の諭子を説いて、依前として只だ圏繢裏に在ることを。
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『碧巌録』第六十五則雪竇道ふ、「明鏡忽ち台に臨めば、当下に妍醜を分かつ」と。這箇は曾て動著せず、只だ箇の良久を消ふるのみ。明鏡の台に臨むが如く相似て、万象其の形質を逃るること能はず。外道云く、「世尊大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」と。且く道へ是れ什麼の処か是れ外道の入処。這裏に到りては、須らく是れ箇箇自ら参じ自ら究め、自ら悟り自ら会して始めて得べし。便ち一切処に於いて、行住坐臥、高低を問はず、一時に現成して、更に一絲毫をも移易せず。纔かに計較を作し、一絲毫の道理有れば、即ち人を礙塞殺して、更に入作の分無し。後面に世尊の「大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」を頌して、「当下忽然として妍醜を分かつ。妍醜分かれて迷雲開く、慈門何れの処にか塵埃を生ぜん」と。尽大地は是れ世尊大慈大悲の門戸なり。爾若し透得せば一揑をも消ひず。此れ亦是れ放開底の門戸なり。見ずや、世尊三七日の中に於いて是くの如き事を思惟す、「我寧ろ法を説かず、疾く涅槃に入らん」と。「因みに思ふ良馬の鞭影を窺ふことを、千里の追風喚べば回り得」。追風の馬は鞭影を見て便ち千里を過ぐ。回らしむれば即ち回る。雪竇の意は他を賞して道ふ、「若し俊流を得ば、方に一撥に便ち転じ、一喚に便ち回るべし」と。若し喚べば回り得ば、便ち指を鳴らすこと三下。且く道へ是れ点破か、是れ撒沙か。
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