碧巌録 / 第八十則
六識無功伸一問。古人學道。養到這裏。謂之無功之功。與嬰兒一般。雖有眼耳鼻舌身意。而不能分別六塵。蓋無功用也。既到這般田地。便乃降龍伏虎。坐脫立亡。如今人但將目前萬境。一時歇却。何必八地以上。方乃如是。雖然無功用處。依舊山是山水是水。雪竇前面頌云。活中有眼還同死。藥忌何須鑒作家。蓋為趙州投子是作家。故云。作家曾共辨來端。茫茫急水打毬子。投子道。念念不停流。諸人還知落處麼。雪竇末後教人自著眼看。是故云。落處不停誰解看。此是雪竇活句。且道落在什麼處。
新字:六識無功伸一問。古人学道。養到這裏。謂之無功之功。与嬰児一般。雖有眼耳鼻舌身意。而不能分別六塵。蓋無功用也。既到這般田地。便乃降竜伏虎。坐脱立亡。如今人但将目前万境。一時歇却。何必八地以上。方乃如是。雖然無功用処。依旧山是山水是水。雪竇前面頌云。活中有眼還同死。薬忌何須鑒作家。蓋為趙州投子是作家。故云。作家曽共弁来端。茫茫急水打毬子。投子道。念念不停流。諸人還知落処麼。雪竇末後教人自著眼看。是故云。落処不停誰解看。此是雪竇活句。且道落在什麼処。
書き下し
「六識無功、一問を伸ぶ」。古人の学道、養うて這裏に到る、之を無功の功と謂ふ。嬰児と一般なり。眼耳鼻舌身意有りと雖も、而も六塵を分別すること能はず、蓋し無功用なり。既に這般の田地に到れば、便乃ち竜を降し虎を伏し、坐脱立亡す。如今の人但だ目前の万境を将て一時に歇却せよ、何ぞ必ずしも八地以上にして方に乃ち是の如くならん。無功用の処なりと雖も、依旧として山は是れ山、水は是れ水。雪竇前面に頌して云く、「活中に眼有るも還た死に同じ、薬忌何ぞ須ひん作家を鑒みることを」と。蓋し趙州・投子是れ作家なるが為に、故に云ふ、「作家曾て共に来端を辨ず。茫茫たる急水に毬子を打す」と。投子道ふ、「念念流れを停めず」と。諸人還た落処を知るや。雪竇末後に人をして自ら眼を著けて看しむ。是の故に云ふ、「落処停まらず誰か看ることを解せん」と。此れは是れ雪竇の活句なり。且く道へ、落ちて什麼の処にか在る。
現代語訳
「六識がはたらきを用いないところについて一つの問いが投げかけられた」。古人が道を学び、修養を積んでここに至ることを「功なき功」と言う。赤子と同じである。眼・耳・鼻・舌・身・意を具えていても、六つの対象を分別することができない、まさにはたらきを用いないのである。このような境地に至れば、竜を降し虎を伏し、坐ったまま、立ったまま死ぬこともできる。今の人は、ただ目の前のあらゆる境遇を一度にすっかり休止させればよい。どうして必ず八地以上の菩薩になってはじめてそうなれるというのか。はたらきを用いないところであっても、やはり山は山、水は水である。雪竇は以前の頌で「活きている中に眼があってもなお死んだのと同じ、薬の禁忌でどうして作家を見分ける必要があろう」と言った。思うに趙州と投子は作家であるから、「達人たちはかつてともにその問いの出どころを見分けた。果てしなく広がる急流の上で毬を打つ」と言うのである。投子は「一念一念、流れが止まることはない」と言った。諸君はその落ち着き先がわかるか。雪竇は最後に、人に自分で眼をつけて見させようとする。だから「落ちていく先は止まることがない、それを誰が見て取れようか」と言うのである。これは雪竇の活きた句である。さあ言ってみよ、落ちてどこにあるのか。
解説
この章句が説くこと
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『碧巌録』第八十則雪竇頌して云く、駛。六識無功、一問を伸ぶ、作家曾て共に来端を辨ず。茫茫たる急水に毬子を打す、落処停まらず誰か看ることを解せん。
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『碧巌録』第八十則古人道ふ、「衲被頭を蒙うて万事休す、此の時山僧都て会せず」と。若し能く此の如くならば、方に少分の相応有らん。然も此の如くなりと雖も、争奈せん一点も也た他を瞞じ得ざることを。山は依旧として是れ山、水は依旧として是れ水。造作無く、縁慮無し。日月の太虚に運りて未だ嘗て暫くも止まざるが如く、亦た我に許多の名相有りと道はず。天の普く蓋ふが如く、地の普く擎ぐるに似たり。無心なるが為の故に、所以に万物を長養す。亦た我に許多の功行有りと道はず。天地は無心なるが為の故に、所以に長久なり。若し心有らば則ち限斉有り。得道の人も亦復た是の如し。無功用の中に於て功用を施し、一切の違情順境、皆慈心を以て摂受す。這裏に到つて、古人尚自ほ呵責して道ふ、「了了了たる時了ずべき無し、玄玄玄なる処直に須らく呵すべし」と。又た道ふ、「事事通じ物物明らかなり、達者之を聞いて暗裏に驚く」と。又た云ふ、「聖に入り凡を超えて声を作さず、臥竜長に碧潭の清きを怖る。人生若し長く此の如くなるを得ば、大地那ぞ能く一名を留めん」と。
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『碧巌録』第八十則挙す。僧、趙州に問ふ、「初生の孩子、還た六識を具するや也た無しや」。趙州云く、「急水上に毬子を打す」。僧、復た投子に問ふ、「急水上に毬子を打す、意旨如何」。子云く、「念念流れを停めず」。
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『碧巌録』第四十一則「活中に眼有るも還つて死に同じ」。雪竇は是れ知有底の人、所以に敢へて頌す。古人道ふ、「他は活句に参じて、死句に参ぜず」。雪竇道ふ、「活中に眼有るも還つて死漢に同じきに相似たり」。何ぞ曾て死せん。死中に眼を具すれば活人に同じきが如し。古人道ふ、「死人を殺し尽くして方に活人を見、死人を活かし尽くして方に死人を見る」。趙州は是れ活底の人、故に死問を作して投子を験取す。薬性の忌む所の物の如く、故に将ち去つて試験するに相似たり。所以に雪竇道ふ、「薬忌何ぞ須ひん作家を鑑みることを」。此れは趙州の問処を頌す。後面に投子を頌す。「古仏すら尚ほ言ふ曾て未だ到らずと」。只だ這の大死底の人の却つて活する処、古仏も亦た曾て到らず、天下の老和尚も亦た曾て到らず。任是釈迦老子・碧眼の胡僧も也た須らく再参して始めて得べし。所以に道ふ、「只だ老胡の知るを許して、老胡の会するを許さず」。雪竇道ふ、「知らず誰か解く塵沙を撒く」。見ずや、僧、長慶に問ふ、「如何なるか是れ善知識の眼」。慶云く、「願有り沙を撒かず」。保福云く、「更に撒くべからず」。天下の老和尚、曲彔木床上に拠つて、棒を行じ喝を行じ、払を竪て床を敲き、神通を現じ主宰と作る、尽く是れ沙を撒くなり。且く道へ、如何にしてか免れ得ん。
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『碧巌録』第八十則所以に溈山、仰山に問うて云く、「寂子如何」。仰山云く、「和尚は他の見解を問ふか、他の行解を問ふか。若し他の行解を問はば、某甲知らず。若し是れ見解ならば、一瓶の水を一鉼の水に注ぐが如し」。若し此の如くなるを得ば、皆以て一方の師と為るべし。趙州云く、「急水上に毬子を打す」と。早く是れ転轆轆地なるに、更に急水上に向かつて打する時、眨眼にも便ち過ぐ。譬へば楞厳経に云ふが如し、「急流の水の、望んで恬静と為すが如し」と。古人云く、「譬へば駛流の水の如し、水流れて定止無し、各各相知らず、諸法も亦た是の如し」と。趙州の答処、意渾て此に類す。其の僧又た投子に問ふ、「急水上に毬子を打す、意旨如何」。子云く、「念念流れを停めず」。自然に他の問処と恰好なり。古人の行履は綿密にして、答へ得て只だ一箇に似たり、更に計較することを消ひず。爾纔かに他に問へば、早に爾が落処を知り了れり。孩子の六識は、無功用なりと雖も、争奈せん念念停まらず、密水の流るるが如くなることを。投子恁麼に答ふ、深く来風を辨ずと謂ふべし。
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『碧巌録』第八十則此の六識、教家立てて正本と為す。山河大地、日月星辰、其れに因つて生ずる所以なり。来たれば先鋒と為り、去れば殿後と為る。古人道ふ、「三界唯心、万法唯識」と。若し仏地を証せば、八識を以て転じて四智と為す。教家之を名を改めて体を改めずと謂ふ。根・塵・識是れ三なり。前塵は元より分別することを会せず、勝義根能く識を発生し、識能く色を顕はして分別す、即ち是れ第六意識なり。第七識は末那識、能く世間一切の影事を去きて執持し、人をして煩悩せしめ、自由自在なることを得ざらしむ、皆是れ第七識なり。第八識に到りては、亦た之を阿頼耶識と謂ひ、亦た之を含蔵識と謂ふ。一切の善悪の種子を含蔵す。這の僧教意を知る、故に将ち来たつて趙州に問うて道ふ、「初生の孩子、還た六識を具するや也た無しや」と。初生の孩児は、六識を具して眼能く見、耳能く聞くと雖も、然も未だ曾て六塵の好悪長短、是非得失を分別せず。他恁麼の時総て知らず。学道の人は復た嬰孩の如くならんことを要す。栄辱功名、逆情順境、都て他を動かし得ず。眼に色を見て盲と等しく、耳に声を聞いて聾と等しく、痴の如く兀に似て、其の心動ぜざること須弥山の如し。這箇は是れ衲僧家の真実得力の処なり。
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