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碧巌録 / 第八十八則

離婁黃帝時人。百步外能見秋毫之末。其目甚明。黃帝游於赤水沈珠。令離朱尋之不見。令喫詬尋之亦不得。後令象罔尋之方獲之。故云。象罔到時光燦爛。離婁行處浪滔天。這箇高處一著。直是離婁之目亦辨他正色不得。師曠豈識玄絲。周時絳州晉景公之子。師曠字子野善別五音六律。隔山聞蟻鬪。時晉與楚爭覇。師曠唯鼓琴。撥動風絃。知戰楚必無功。雖然如是。雪竇道。他尚未識玄絲在。不聾却是聾底人。這箇高處玄音。直是師曠亦識不得。雪竇道。我亦不作離婁。亦不作師曠。爭如獨坐虛窓下。葉落花開自有時。若到此境界。雖然見似不見。聞似不聞。說似不說。飢即喫飯。困即打眠。任他葉落花開。葉落時是秋。花開時是春。各各自有時節。雪竇與爾一時掃蕩了也。又放一線道云。還會也無。雪竇力盡神疲。只道得箇無孔鐵鎚。這一句急著眼看方見。若擬議又蹉過。師舉拂子云。還見麼。遂敲禪床一下云。還聞麼。下禪床云。還說得麼。

新字:離婁黄帝時人。百歩外能見秋毫之末。其目甚明。黄帝游於赤水沈珠。令離朱尋之不見。令喫詬尋之亦不得。後令象罔尋之方獲之。故云。象罔到時光燦爛。離婁行処浪滔天。這箇高処一著。直是離婁之目亦弁他正色不得。師曠豈識玄糸。周時絳州晋景公之子。師曠字子野善別五音六律。隔山聞蟻闘。時晋与楚争覇。師曠唯鼓琴。撥動風絃。知戦楚必無功。雖然如是。雪竇道。他尚未識玄糸在。不聾却是聾底人。這箇高処玄音。直是師曠亦識不得。雪竇道。我亦不作離婁。亦不作師曠。争如独坐虚窓下。葉落花開自有時。若到此境界。雖然見似不見。聞似不聞。説似不説。飢即喫飯。困即打眠。任他葉落花開。葉落時是秋。花開時是春。各各自有時節。雪竇与爾一時掃蕩了也。又放一線道云。還会也無。雪竇力尽神疲。只道得箇無孔鉄鎚。這一句急著眼看方見。若擬議又蹉過。師舉払子云。還見麼。遂敲禅床一下云。還聞麼。下禅床云。還説得麼。

書き下し

離婁は黄帝の時の人なり。百歩の外に能く秋毫の末を見る、其の目甚だ明らかなり。黄帝赤水に游んで珠を沈む。離朱をして之を尋ねしむるに見えず、喫詬をして之を尋ねしむるも亦た得ず。後に象罔をして之を尋ねしむるに方に之を獲たり。故に云く、「象罔到る時光燦爛、離婁行く処浪滔天」と。這箇の高処の一著は、直に是れ離婁の目も亦た他の正色を辨じ得ず。師曠豈に玄糸を識らんやとは、周の時、絳州晋景公の子、師曠、字は子野、善く五音六律を別つ。山を隔てて蟻の闘ふを聞く。時に晋と楚と覇を争ふ。師曠唯だ琴を鼓し、風絃を撥動して、楚と戦ふに必ず功無きことを知る。是の如くなりと雖も、雪竇道ふ、他尚ほ未だ玄糸を識らざること在りと。聾ならずして却つて是れ聾なる底の人なり。這箇の高処の玄音は、直に是れ師曠も亦た識り得ず。雪竇道ふ、我れ亦た離婁と作らず、亦た師曠と作らず。争でか如かん、独り虚窓の下に坐して、葉落ち花開くこと自ら時有るに。若し此の境界に到らば、見ること見ざるに似、聞くこと聞かざるに似、説くこと説かざるに似たりと雖も、飢ゑては即ち飯を喫し、困じては即ち打眠す。他の葉落ち花開くに任す。葉落つる時は是れ秋、花開く時は是れ春、各各自ら時節有り。雪竇爾が与に一時に掃蕩し了り、又た一線の道を放ちて云く、「還た会すや也た無しや」と。雪竇力尽き神疲れて、只だ箇の無孔の鉄鎚を道ひ得たり。這の一句、急に著眼して看て方に見る。若し擬議せば又た蹉過せん。師、払子を挙して云く、「還た見るや」。遂に禅床を敲くこと一下して云く、「還た聞くや」。禅床を下りて云く、「還た説き得るや」。

現代語訳

離婁は黄帝の時代の人である。百歩離れた処から秋に生え替わった獣の細い毛の先まで見えた。その目は実によく見えた。黄帝が赤水に遊んで珠を沈めてしまい、離朱(離婁)に探させたが見つからず、喫詬に探させてもやはり得られなかった。後に象罔に探させると、ようやく手に入れた。だから「象罔が行けば光は燦然と輝き、離婁が行く処には波が天まで逆巻く」と言う。この高い処の一手は、まさに離婁の目でもその正しい色を見分けられない。師曠もどうして玄妙な弦の音を聞き分けられよう、とは、周の時代、絳州の晋の景公の子で、師曠、字は子野という者は、五音六律をよく聞き分け、山を隔てて蟻が闘う音を聞いた。当時、晋と楚が覇を争っていた。師曠はただ琴を弾き、風の弦をかき鳴らして、楚と戦っても必ず功がないことを知った。そうではあるが、雪竇は、彼はまだ玄妙な弦の音を知らないと言う。耳が聞こえないのではないのに、かえって聞こえない人である。この高い処の玄妙な音は、まさに師曠でも聞き分けられない。雪竇は言う。わたしは離婁にもならず、師曠にもならない。むなしい窓の下にひとり坐り、葉が落ち花が開くのはおのずと時があるのに及ぶものはない、と。もしこの境地に至れば、見ても見ないかのよう、聞いても聞かないかのよう、説いても説かないかのようではあるが、腹が減れば飯を食い、疲れれば眠る。葉が落ち花が開くのにまかせる。葉が落ちる時は秋、花が開く時は春、それぞれにおのずと時節がある。雪竇は君たちのために一度に掃き払っておいて、また一筋の道を放って「分かったか、どうか」と言う。雪竇は力尽き精も根も疲れて、ただ「穴のない鉄の槌」と言えただけである。この一句は、すばやく目をつけて見てこそ見える。思い量れば、またすれ違う。師(圜悟)は払子を挙げて「見えるか」と言い、禅床を一度叩いて「聞こえるか」と言い、禅床を下りて「言えるか」と言った。

解説

圜悟の頌評唱の後半である。百歩先の毛先まで見えた離婁が黄帝の沈めた珠を見つけられず、無心の象罔が見つけたという故事と、山の向こうの蟻の闘いを聞き分けた楽師師曠の故事が語られる。しかし雪竇は、離婁にも師曠にもならず、窓の下にひとり坐って葉が落ち花が開くのにまかせると言う。腹が減れば食べ、疲れれば眠り、秋には秋、春には春がある。最後に圜悟自身が払子を挙げ、禅床を叩き、床を下りて、見えるか、聞こえるか、言えるかと聴衆に迫る。鋭い能力よりも、時を待ち自然に応じる落ち着きが、物事の本質を捉えることがある。

この章句が説くこと

公案無心時節自然離婁師曠

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