碧巌録 / 第八十八則
盲聾瘖啞 杳絕機宜天上天下 堪笑堪悲離婁不辨正色師曠豈識玄絲 爭如獨坐虛窓下葉落花開自有時。復云。還會也無無孔鐵鎚盲聾瘖啞杳絕機宜。盡爾見與不見聞與不聞說與不說。雪竇一時與爾掃却了也。直得盲聾瘖啞見解。機宜計較。一時杳絕。總用不著。這箇向上事。可謂真盲真聾真啞。無機無宜。天上天下堪笑堪悲。雪竇一手擡一手搦。且道笑箇什麼悲箇什麼。堪笑是啞却不啞。是聾却不聾。堪悲明明不盲却盲。明明不聾却聾。離婁不辨正色。不能辨青黃赤白。正是瞎。
新字:盲聾瘖唖 杳絶機宜天上天下 堪笑堪悲離婁不弁正色師曠豈識玄糸 争如独坐虚窓下葉落花開自有時。復云。還会也無無孔鉄鎚盲聾瘖唖杳絶機宜。尽爾見与不見聞与不聞説与不説。雪竇一時与爾掃却了也。直得盲聾瘖唖見解。機宜計較。一時杳絶。総用不著。這箇向上事。可謂真盲真聾真唖。無機無宜。天上天下堪笑堪悲。雪竇一手擡一手搦。且道笑箇什麼悲箇什麼。堪笑是唖却不唖。是聾却不聾。堪悲明明不盲却盲。明明不聾却聾。離婁不弁正色。不能弁青黄赤白。正是瞎。
書き下し
盲聾瘖啞、杳かに機宜を絶す。天上天下、笑ふに堪へ悲しむに堪へたり。離婁も正色を辨ぜず、師曠豈に玄糸を識らんや。争でか如かん、独り虚窓の下に坐して、葉落ち花開くこと自ら時有るに。復た云く、「還た会すや也た無しや、無孔の鉄鎚」。盲聾瘖啞、杳かに機宜を絶す。尽く爾が見ると見ざると、聞くと聞かざると、説くと説かざるとを、雪竇一時に爾が与に掃却し了れり。直に盲聾瘖啞の見解、機宜の計較、一時に杳絶して、総に用ゐ著かざることを得たり。這箇の向上の事、真盲・真聾・真啞、無機無宜と謂ひつ可し。天上天下、笑ふに堪へ悲しむに堪へたり。雪竇一手は擡げ一手は搦ふ。且く道へ、箇の什麼をか笑ひ、箇の什麼をか悲しむ。笑ふに堪へたるは、是れ啞にして却つて啞ならず、是れ聾にして却つて聾ならず。悲しむに堪へたるは、明明に盲ならずして却つて盲、明明に聾ならずして却つて聾なり。離婁も正色を辨ぜずとは、青黄赤白を辨ずること能はず、正に是れ瞎なり。
現代語訳
盲・聾・啞、はるかに機宜を絶している。天上天下、笑うべく、悲しむべし。離婁も正しい色を見分けられず、師曠もどうして玄妙な弦の音を聞き分けられよう。むなしい窓の下にひとり坐り、葉が落ち花が開くのはおのずと時があるのに及ぶものはない。さらに言った。「分かったか、どうか。穴のない鉄の槌だ」。盲・聾・啞、はるかに機宜を絶している、とは、君の見ることと見ないこと、聞くことと聞かないこと、説くことと説かないことを、雪竇が一度に君のために掃き払ってしまったのである。盲聾啞という見方も、機宜をめぐる計らいも、一度にはるかに絶えて、まったく役に立たなくなった。この向上の事は、真の盲、真の聾、真の啞であり、機もなく宜もないと言うべきである。天上天下、笑うべく悲しむべし、とは、雪竇が片手で持ち上げ片手で押さえているのである。さあ言ってみよ、何を笑い、何を悲しむのか。笑うべきは、啞でありながら啞でなく、聾でありながら聾でないこと。悲しむべきは、明らかに盲でないのに盲であり、明らかに聾でないのに聾であることだ。離婁も正しい色を見分けられない、とは、青黄赤白を見分けられない、まさに目が見えないということである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第八十八則離婁は黄帝の時の人なり。百歩の外に能く秋毫の末を見る、其の目甚だ明らかなり。黄帝赤水に游んで珠を沈む。離朱をして之を尋ねしむるに見えず、喫詬をして之を尋ねしむるも亦た得ず。後に象罔をして之を尋ねしむるに方に之を獲たり。故に云く、「象罔到る時光燦爛、離婁行く処浪滔天」と。這箇の高処の一著は、直に是れ離婁の目も亦た他の正色を辨じ得ず。師曠豈に玄糸を識らんやとは、周の時、絳州晋景公の子、師曠、字は子野、善く五音六律を別つ。山を隔てて蟻の闘ふを聞く。時に晋と楚と覇を争ふ。師曠唯だ琴を鼓し、風絃を撥動して、楚と戦ふに必ず功無きことを知る。是の如くなりと雖も、雪竇道ふ、他尚ほ未だ玄糸を識らざること在りと。聾ならずして却つて是れ聾なる底の人なり。這箇の高処の玄音は、直に是れ師曠も亦た識り得ず。雪竇道ふ、我れ亦た離婁と作らず、亦た師曠と作らず。争でか如かん、独り虚窓の下に坐して、葉落ち花開くこと自ら時有るに。若し此の境界に到らば、見ること見ざるに似、聞くこと聞かざるに似、説くこと説かざるに似たりと雖も、飢ゑては即ち飯を喫し、困じては即ち打眠す。他の葉落ち花開くに任す。葉落つる時は是れ秋、花開く時は是れ春、各各自ら時節有り。雪竇爾が与に一時に掃蕩し了り、又た一線の道を放ちて云く、「還た会すや也た無しや」と。雪竇力尽き神疲れて、只だ箇の無孔の鉄鎚を道ひ得たり。這の一句、急に著眼して看て方に見る。若し擬議せば又た蹉過せん。師、払子を挙して云く、「還た見るや」。遂に禅床を敲くこと一下して云く、「還た聞くや」。禅床を下りて云く、「還た説き得るや」。
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『碧巌録』第八十八則後に僧有り、雲門に挙似す。門便ち他の意を会して云く、「汝礼拝せよ」。僧礼拝して起つ。門、拄杖を以て挃く。這の僧退後す。門云く、「汝は是れ患盲にあらず」。復た喚ぶ、「近前し来れ」。僧近前す。門云く、「汝は是れ患聾にあらず」。乃ち云く、「会すや」。僧云く、「会せず」。門云く、「汝は是れ患啞にあらず」。其の僧此に於て省有り。当時若し是れ箇の漢ならば、他の「礼拝せよ」と道ふを等ちて、便ち与に禅床を掀倒せん。豈に許多の葛藤有るを見んや。且く道へ、雲門と玄沙と会する処、是れ同か是れ別か。他の両人の会する処、都て只だ一般なり。看よ他の古人出で来つて千万種の方便を作す、意は鉤頭上に在り。多少の苦口ぞ、只だ諸人をして各各此の一段の事を明らめしめんとす。五祖老師云く、「一人は説き得て却つて会せず、一人は却つて会して説き得ず。二人若し来参せば、如何が他を辨じ得ん。若し這の両人を辨じ得ずんば、管取す人の為に粘を解き縛を去ること得ざること在り。若し辨じ得ば、纔かに入門を見て、我れ便ち草鞋を著けて爾が肚裏に向つて走ること幾遭し了らん。猶自ほ省みずんば、什麼の碗をか討めて出で去らん」と。且く盲聾瘖啞の会を作すこと莫くんば好し。若し恁麼に計較せば、所以に道ふ、「眼に色を見ること盲に如き等しく、耳に声を聞くこと聾に如き等し」と。又た道ふ、「満眼に色を視ず、満耳に声を聞かず。文殊は常に目に触れ、観音は耳根を塞ぐ」と。這裏に到つて、眼に見ること盲の如くに相似、耳に聞くこと聾の如くに相似て、方に能く玄沙の意と多くを争はず。諸人還た盲聾瘖啞底の漢子の落処を識るや。看取せよ、雪竇の頌に云く、
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『碧巌録』第八則雪竇若し恁麼に慈悲もて頌出して人をして見せしめずんば、争でか善知識と名づくることを得ん。古人此の如くなる、一一皆是れ事已むことを獲ず。蓋し後学の他の言句に著いて、転た情解を生ずるが為に、所以に古人の意旨を見ず。如今忽ち箇の出で来つて、禅床を掀倒し、大衆を喝散する有るも、他を怪しむことを得ず。然も此の如くなりと雖も、也た須らく実に這の田地に到つて始めて得べし。雪竇道ふ、「千古対無し」。他只だ道ふ、「看よ翠巌が眉毛在りや」。什麼の奇特の処か有つて、便乃ち千古対無き。須らく知るべし、古人一言半句を吐き出す、是れ造次にあらざることを。須らく是れ乾坤を定むる底の眼有つて始めて得べし。雪竇一言半句を著くるも、金剛王宝剣の如く、踞地の獅子の如く、石火を撃つが如く、閃電光に似たり。若し是れ頂門に眼を具せずんば、争でか能く他の古人の落処を見ん。這箇の示衆、直に千古対無きことを得て、徳山の棒、臨済の喝に過ぎたり。
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『碧巌録』第十則人の虎頭に騎るが如きは、須らく是れ手中に刀有り、兼ねて転変有つて始めて得べし。雪竇道ふ、「若し恁麼ならば、二り倶に瞎漢と成る」。雪竇は天に倚る長剣に似て、凜凜として全威あり。若し雪竇の意を会得せば、自然に千処万処一時に会せん。便ち見ん、他の雪竇の後面の頌は、只だ是れ注脚を下すのみなることを。又道ふ、「誰か瞎漢」。且く道へ、是れ賓家瞎か、是れ主家瞎か、是れ賓主一時に瞎なること莫しや。「拈じ来つて天下に人の与に看せしむ」、此れは是れ活処なり。雪竇一時に頌し了れり。什麼としてか却つて道ふ、「拈じ来つて天下に人の与に看せしむ」と。且く道へ、作麼生か看ん。眼を開くも也た著し、眼を合するも也た著す。還つて人の免れ得る有りや。
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『碧巌録』第四十二則「雪団打、雪団打、龐老の機関把るべき没し」。雪竇は居士の頭上に在つて行かんことを要す。古人雪を以て一色辺の事を明かす。雪竇の意に道ふ、当時若し雪団を握つて打たば、居士縦ひ如何なる機関有るも、亦た搆へ得難しと。雪竇自ら他の打処を誇る。殊に知らず落節の処有ることを。「天上人間自ら知らず、眼裏耳裏絶えて瀟灑」。眼裏も也た是れ雪、耳裏も也た是れ雪、正に一色辺に住在す。亦た之を普賢境界一色辺の事と謂ひ、亦た之を打成一片と謂ふ。雲門道ふ、「直に尽乾坤大地、繊毫の過患無きことを得るも、猶ほ転句と為す。一色を見ざる、始めて是れ半提。若し全提を要せば、須らく向上の一路有ることを知りて始めて得べし」。這裏に到つて須らく是れ大用現前して、針箚せども入らず、他人の処分を聴かざるべし。所以に道ふ、「他は活句に参じて、死句に参ぜず」。古人道ふ、「一句合頭の語、万劫の繋驢橛」。什麼の用処か有らん。雪竇此に到つて頌殺し了つて、復た機を転じて道ふ、「只だ此の瀟灑絶、直饒是れ碧眼の胡僧も也た弁別し難し」。碧眼の胡僧すら尚ほ弁別し難し、更に山僧をして箇の什麼をか説かしめん。
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『碧巌録』第五則雪竇自然に他の古人を見る、只だ他の命脈上に去いて一劄を消して、他の与に頌出す。「牛頭没し馬頭回る」。且く道へ、箇の什麼をか説く。見得透する底は、早朝に粥を喫し、斎時に飯を喫するが如くに相似たり、只だ是れ尋常なり。雪竇慈悲、当頭に一鎚に撃砕し、一句に截断す。只だ是れ妨げず孤峻なることを。石火を撃つが如く閃電光に似たり。鋒鋩を露はさず、爾が湊泊の処無し。且く道へ、意根下に向つて摸索し得んや。此の両句一時に道ひ尽し了れり。雪竇第三句、却つて一線道を通じて、略ぼ些かの風規を露はす。早く是れ落草なり。第四句、直下に更に是れ落草なり。若し言上に言を生じ、句上に句を生じ、意上に意を生じて、解を作し会を作さば、唯だ老僧を帯累するのみにあらず、亦乃ち雪竇に辜負せん。古人の句は此の如くなりと雖も、意は此の如くならず。終に道理を作して人を繋縛せず。「曹渓鏡裏塵埃を絶す」。多少の人か道ふ、「静心便ち是れ鏡」と。且喜すらくは没交渉。只管に計較道理を作す、什麼の了期か有らん。這箇は是れ本分の説話、山僧敢へて本分に依らずんばあらず。「牛頭没し馬頭回る」、雪竇分明に説き了れり。自ら是れ人見ず。所以に雪竇此の如く郎当として頌して道ふ、「鼓を打つて看来れども君見ず」。癡人還た見るや。更に爾に向つて道ふ、「百花春至つて誰が為にか開く」。謂つべし戸牖を豁開して、爾が与に一時に八字に打開し了れりと。春来るに及んで、幽谷野澗、乃至人無き処にも、百花競ひ発く。爾且く道へ、更に誰が為にか開く。
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