碧巌録 / 第七十五則
看他兩箇機鋒互換。絲來線去。打成一片。始終賓主分明。有時主却作賓。有時賓却作主。雪竇也讚歎不及。所以道。互換之機。教人且子細看。劫石固來猶可壞。謂此劫石。長四十里。廣八萬四千由旬。厚八萬四千由旬。凡五百年乃有天人下來。以六銖衣袖拂一下。又去至五百年。又來如此拂。拂盡此石。乃為一劫。謂之輕衣拂石劫。雪竇道。劫石固來猶可壞。石雖堅固。尚爾可消磨盡。此二人機鋒。千古萬古。更無有窮盡。滄溟深處立須乾。任是滄溟。洪波浩渺白浪滔天。若教此二人。向內立地。此滄溟也須乾竭。
新字:看他両箇機鋒互換。糸来線去。打成一片。始終賓主分明。有時主却作賓。有時賓却作主。雪竇也讃嘆不及。所以道。互換之機。教人且子細看。劫石固来猶可壊。謂此劫石。長四十里。広八万四千由旬。厚八万四千由旬。凡五百年乃有天人下来。以六銖衣袖払一下。又去至五百年。又来如此払。払尽此石。乃為一劫。謂之軽衣払石劫。雪竇道。劫石固来猶可壊。石雖堅固。尚爾可消磨尽。此二人機鋒。千古万古。更無有窮尽。滄溟深処立須乾。任是滄溟。洪波浩渺白浪滔天。若教此二人。向内立地。此滄溟也須乾竭。
書き下し
看よ他の両箇の機鋒互換、糸来たり線去つて、打して一片と成る。始終賓主分明なり。有る時は主却つて賓と作り、有る時は賓却つて主と作る。雪竇も也た讃歎し及ばず。所以に「互換の機」と道ひて、人をして且く子細に看せしむ。劫石固め来たるも猶ほ壊るべし。謂ふこころは、此の劫石、長さ四十里、広さ八万四千由旬、厚さ八万四千由旬。凡そ五百年にして乃ち天人有つて下り来たり、六銖衣の袖を以て払ふこと一下し、又た去つて五百年に至り、又た来たつて此の如く払ふ。此の石を払ひ尽くして乃ち一劫と為す。之を軽衣払石劫と謂ふ。雪竇道ふ、劫石固め来たるも猶ほ壊るべしと。石は堅固なりと雖も、尚爾ほ消磨し尽くすべし。此の二人の機鋒は、千古万古、更に窮尽有ること無し。滄溟深き処、立たば須らく乾くべし。任是ひ滄溟、洪波浩渺として白浪天に滔るとも、若し此の二人をして内に向かつて立地せしめば、此の滄溟も也た須らく乾竭すべし。
現代語訳
見よ、この二人が機鋒を入れ替えるさまは、糸が来ては糸が去り、打ち合わさって一つになっている。始めから終わりまで主客がはっきりしている。ある時は主がかえって客となり、ある時は客がかえって主となる。雪竇もほめたたえきれない。だから「互換の機」と言って、人にとにかくよく見させるのである。「劫石は固くてもなお壊れうる」。この劫石とは、長さ四十里、広さ八万四千由旬、厚さ八万四千由旬の石である。およそ五百年ごとに天人が下りて来て、六銖の薄衣の袖でひと払いし、去ってまた五百年たつと、また来て同じように払う。この石を払い尽くして、ようやく一劫とする。これを軽衣払石劫という。雪竇は、劫石は固くてもなお壊れうると言う。石は堅固であっても、なお磨り減らし尽くすことができる。だがこの二人の機鋒は、千古万古、尽きることがない。「大海の深い所も、立てば必ず干上がる」。たとえ大海が大波はるかに広がり、白波が天にみなぎっていても、もしこの二人をその中に立たせれば、この大海もきっと干上がってしまうだろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第七十五則看よ他の作家の相見ゆること、始終賓主分明にして、断じて能く続く。其の実は也た只だ是れ互換の機なり。他は這裏に到つて、亦た箇の互換の処有りとも道はず。自ら是れ他の古人、情塵意想を絶して、彼此作家なり。亦た得有り失有りとも道はず。是れ一期間の語言なりと雖も、両個活鱍鱍地にして、都て血脈針線有り。若し能く此に於て見得せば、亦乃ち十二時中に向かつて歴歴分明ならん。其の僧便ち出づるは是れ双放、已下は是れ双収、之を互換と謂ふ。雪竇正に恁麼地に頌出す。
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『碧巌録』第七十五則「呼ぶことは即ち易く、遣ることは即ち難し。互換の機鋒、子細に看よ。劫石固め来たるも猶ほ壊るべし、滄溟深き処、立たば須らく乾くべし。烏臼老、烏臼老、幾何般ぞ。他に杓柄を与ふること太だ端無し」。呼ぶことは即ち易く、遣ることは即ち難し。一等に是れ落草なり。雪竇忒殺だ慈悲なり。尋常道ふ、「蛇を呼ぶことは易く、蛇を遣ることは難し」と。如今箇の瓢子を将て吹き来たれば、蛇を喚ぶことは即ち易く、遣らんと要する時は即ち難し。一に棒を将て他に与ふることは却つて易く、復た他の棒を奪つて遣り去ることは却つて難きに似たり。須らく是れ本分の手脚有つて、方に能く他を遣り得て去らしむべし。烏臼は是れ作家なり、蛇を呼ぶ底の手脚有り、亦た蛇を遣る底の手段有り。這の僧も也た是れ瞌睡底ならず。烏臼問ふ、「定州の法道、這裏に何似」、便ち是れ他を呼ぶ。烏臼便ち打つ、是れ他を遣る。僧云く、「棒頭に眼有り、草草に人を打つことを得ざれ」、却つて転じて這の僧の処に在り、便ち是れ呼び来たる。烏臼云く、「汝若し要せば、山僧、汝に回与せん」。僧便ち近前して棒を奪ひ、也た打つこと三下、却つて是れ這の僧遣り去る。乃至這の僧大笑して出づ。烏臼云く、「恁麼なることを消得す、恁麼なることを消得す」。此れ分明に是れ他を遣り得て恰も好し。
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『碧巌録』第二十九則劫火光中に問端を立つ、衲僧猶ほ両重の関に滞る。憐れむべし一句随他の語、万里区区として独り往還す。雪竇機に当たって頌出す、句裏に出身の処有り。「劫火光中に問端を立つ、衲僧猶ほ両重の関に滞る」。這の僧の問処、先づ壊と不壊とを懐く、是れ両重の関なり。若し是れ得底の人ならば、壊すと道ふも也た出身の処有り、壊せずと道ふも也た出身の処有り。「憐れむべし一句随他の語、万里区区として独り往還す」。這の僧の此の問を持して投子に投じ、又復た大随に回るを頌す。万里区区と謂ひつべし。
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『碧巌録』第七十九則「投子投子、機輪阻無し。一を放つて二を得、彼に同じく此に同じ。憐れむべし無限の弄潮の人、畢竟還た潮中に落ちて死す。忽然として活せば、百川倒に流れて閙活活たらん」。投子投子、機輪阻無し。投子尋常道ふ、「爾総に投子は実頭なりと道ふ。忽然として山を下ること三歩、人有つて爾に問うて、如何なるか是れ投子実頭の処と道はば、爾作麼生か抵対せん」と。古人道ふ、「機輪の転ずる処、作者すら猶ほ迷ふ」と。他の機輪は転轆轆地にして全く阻隔無し。所以に雪竇道ふ、「一を放つて二を得」と。見ずや僧問ふ、「如何なるか是れ仏」。投子云く、「仏」。又た問ふ、「如何なるか是れ道」。投子云く、「道」。又た問ふ、「如何なるか是れ禅」。投子云く、「禅」。又た問ふ、「月未だ円かならざる時如何」。投子云く、「三箇四箇を呑却す」。「円かなる後如何」。「七箇八箇を吐却す」。投子の人を接する、常に此の機を用ふ。這の僧に答ふるも、只だ是れ一箇の是の字なり。這の僧両回打たる。所以に雪竇道ふ、「彼に同じく此に同じ」と。四句一時に投子を頌し了る。
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『碧巌録』第六十五則機輪曾て未だ転ぜず、転ずれば必ず両頭に走る。明鏡忽ち台に臨めば、当下に妍醜を分かつ。妍醜分かれて迷雲開く、慈門何れの処にか塵埃を生ぜん。因みに思ふ良馬の鞭影を窺ふことを、千里の追風喚べば回り得。喚べば回り得、指を鳴らすこと三下。「機輪曾て未だ転ぜず、転ずれば必ず両頭に走る」。機は乃ち千聖の霊機、輪は是れ従本已来諸人の命脈なり。見ずや古人道ふ、「千聖の霊機は親しみ易からず、龍は龍子を生む、因循すること莫かれ。趙州奪ひ得たり連城の璧、秦王も相如も総に身を喪ふ」と。外道は却つて是れ把得住し作得主して、未だ嘗て動著せず。何が故ぞ。他道ふ、「有言を問はず、無言を問はず」と。豈に是れ全機の処にあらずや。世尊は会く風を看て帆を使ひ、病に応じて薬を与ふ。所以に良久して全機提起す。外道全体会し去りて、機輪便ち阿轆轆地に転ず。亦有に転向せず、亦無に転向せず、得失に落ちず、凡聖に拘はらず、二辺一時に坐断す。世尊纔かに良久すれば、他便ち礼拝す。如今の人多く無に落在し、然らざれば有に落在して、只管に有無の処に在りて両頭に走る。
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『碧巌録』第七十五則僧、定州和尚の会裏より烏臼に来到す。臼も亦た是れ作家なり。諸人、若し這裏に向かつて此の二人の一出一入を識得せば、千箇万箇も只だ是れ一箇なり。主と作るも也た恁麼、賓と作るも也た恁麼。二人畢竟合して一家と成る。一期の勘辨、賓主の問答、始終作家なり。看よ烏臼、這の僧に問うて云く、「定州の法道、這裏に何似」。僧便ち云く、「別ならず」。当時若し是れ烏臼ならずんば、這の僧を奈何ともし難からん。臼云く、「若し別ならずんば、更に彼中に転じ去れ」。便ち打つ。争奈せん、這の僧は是れ作家の漢なることを。便ち云く、「棒頭に眼有り、草草に人を打つことを得ざれ」。臼一向に令を行じて云く、「今日一箇を打著せり」。又た打つこと三下。其の僧便ち出で去る。看よ他の両箇、転轆轆地、倶に是れ作家なり。
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