碧巌録 / 第七十五則
呼即易 遣即難互換機鋒子細看劫石固來猶可壞 滄溟深處立須乾烏臼老烏臼老幾何般 與他杓柄太無端呼即易遣即難。一等是落草。雪竇忒殺慈悲。尋常道。呼蛇易遣蛇難。如今將箇瓢子吹來。喚蛇即易。要遣時即難。一似將棒與他却易。復奪他棒。遣去却難。須是有本分手脚。方能遣得他去。烏臼是作家。有呼蛇底手脚。亦有遣蛇底手段。這僧也不是瞌睡底。烏臼問。定州法道何似這裏。便是呼他。烏臼便打。是遣他。僧云。棒頭有眼。不得草草打人。却轉在這僧處。便是呼來。烏臼云。汝若要山僧回與汝。僧便近前奪棒。也打三下。却是這僧遣去。乃至這僧大笑而出。烏臼云。消得恁麼消得恁麼。此分明是遣得他恰好。
新字:呼即易 遣即難互換機鋒子細看劫石固来猶可壊 滄溟深処立須乾烏臼老烏臼老幾何般 与他杓柄太無端呼即易遣即難。一等是落草。雪竇忒殺慈悲。尋常道。呼蛇易遣蛇難。如今将箇瓢子吹来。喚蛇即易。要遣時即難。一似将棒与他却易。復奪他棒。遣去却難。須是有本分手脚。方能遣得他去。烏臼是作家。有呼蛇底手脚。亦有遣蛇底手段。這僧也不是瞌睡底。烏臼問。定州法道何似這裏。便是呼他。烏臼便打。是遣他。僧云。棒頭有眼。不得草草打人。却転在這僧処。便是呼来。烏臼云。汝若要山僧回与汝。僧便近前奪棒。也打三下。却是這僧遣去。乃至這僧大笑而出。烏臼云。消得恁麼消得恁麼。此分明是遣得他恰好。
書き下し
「呼ぶことは即ち易く、遣ることは即ち難し。互換の機鋒、子細に看よ。劫石固め来たるも猶ほ壊るべし、滄溟深き処、立たば須らく乾くべし。烏臼老、烏臼老、幾何般ぞ。他に杓柄を与ふること太だ端無し」。呼ぶことは即ち易く、遣ることは即ち難し。一等に是れ落草なり。雪竇忒殺だ慈悲なり。尋常道ふ、「蛇を呼ぶことは易く、蛇を遣ることは難し」と。如今箇の瓢子を将て吹き来たれば、蛇を喚ぶことは即ち易く、遣らんと要する時は即ち難し。一に棒を将て他に与ふることは却つて易く、復た他の棒を奪つて遣り去ることは却つて難きに似たり。須らく是れ本分の手脚有つて、方に能く他を遣り得て去らしむべし。烏臼は是れ作家なり、蛇を呼ぶ底の手脚有り、亦た蛇を遣る底の手段有り。這の僧も也た是れ瞌睡底ならず。烏臼問ふ、「定州の法道、這裏に何似」、便ち是れ他を呼ぶ。烏臼便ち打つ、是れ他を遣る。僧云く、「棒頭に眼有り、草草に人を打つことを得ざれ」、却つて転じて這の僧の処に在り、便ち是れ呼び来たる。烏臼云く、「汝若し要せば、山僧、汝に回与せん」。僧便ち近前して棒を奪ひ、也た打つこと三下、却つて是れ這の僧遣り去る。乃至這の僧大笑して出づ。烏臼云く、「恁麼なることを消得す、恁麼なることを消得す」。此れ分明に是れ他を遣り得て恰も好し。
現代語訳
「呼ぶのはたやすく、追い返すのは難しい。主客が入れ替わる機鋒をよく見よ。劫石は固くてもなお壊れうるが、大海の深い所も二人が立てば必ず干上がる。烏臼老よ、烏臼老よ、いったい幾通りの手を持つのか。相手に柄杓の柄を渡すとは、まったくとんでもない」。「呼ぶのはたやすく、追い返すのは難しい」。どちらも草むらに降りて人のためにすることだ。雪竇はあまりにも慈悲深い。ふだん「蛇を呼ぶのはたやすく、蛇を追い返すのは難しい」と言う。いま笛を吹けば、蛇を呼ぶのはたやすいが、追い返そうとすると難しい。ちょうど棒を相手に渡すのはかえってたやすく、また相手の棒を奪って追い返すのはかえって難しいようなものだ。本分の腕前があってこそ、はじめて相手を追い返すことができる。烏臼は練達の者で、蛇を呼ぶ腕前もあれば、蛇を追い返す手段もある。この僧もまた居眠りしている者ではない。烏臼が「定州の教えは、ここと比べてどうか」と問うたのは、彼を呼んだのである。烏臼がすぐに打ったのは、彼を追い返したのである。僧が「棒の先にも眼があります。むやみに人を打ってはなりません」と言うと、かえってこの僧の側に転じたのであり、これは呼び込んだのである。烏臼が「おまえがもし欲しいなら、わしがおまえに返してやろう」と言い、僧がすぐに進み出て棒を奪い、また三度打ったのは、かえってこの僧が追い返したのである。そしてこの僧が大笑いして出て行き、烏臼が「そうするだけのことはある、そうするだけのことはある」と言った。これははっきりと、相手をちょうどよく追い返したのである。
解説
この章句が説くこと
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『碧巌録』第七十五則挙す。僧、定州和尚の会裏より烏臼に来到す。烏臼問ふ、「定州の法道、這裏に何似」。僧云く、「別ならず」。臼云く、「若し別ならずんば、更に彼中に転じ去れ」。便ち打つ。僧云く、「棒頭に眼有り、草草に人を打つことを得ざれ」。臼云く、「今日一箇を打著せり」。又た打つこと三下。僧便ち出で去る。臼云く、「屈棒、元来人の喫する有り」。僧、身を転じて云く、「争奈せん、杓柄、和尚の手裏に在ることを」。臼云く、「汝若し要せば、山僧、汝に回与せん」。僧、近前して臼の手中の棒を奪ひ、臼を打つこと三下。臼云く、「屈棒、屈棒」。僧云く、「人の喫する有り」。臼云く、「草草に箇の漢を打著す」。僧便ち礼拝す。臼云く、「和尚、却つて恁麼にし去るや」。僧大笑して出づ。臼云く、「恁麼なることを消得す、恁麼なることを消得す」。
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『碧巌録』第七十五則雪竇此に到つて、一時に頌し了る。末後に更に道ふ、「烏臼老、烏臼老、幾何般ぞ」と。或いは擒へ或いは縦ち、或いは殺し或いは活かす、畢竟是れ幾何般ぞ。「他に杓柄を与ふること太だ端無し」。這箇の拄杖子、三世の諸仏も也た用ゐ、歴代の祖師も也た用ゐ、宗師家も也た用ゐて、人の与に釘を抽き楔を抜き、粘を解き縛を去る。争でか軽易に分付して人に与ふることを得ん。雪竇の意は独り用ゐんことを要す。頼ひに這の僧の当時只だ他と平展するに値ふ。忽若し旱地に雷を起こさば、看よ他の如何が当抵せん。烏臼、杓柄を過して人に与へ去る、豈に是れ太だ端無きにあらずや。
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『碧巌録』第七十五則這の一事を了ぜんには、須らく緇素を分かち休咎を別つことを要す。這の僧出で去ると雖も、這の公案、却つて未だ了ぜず。烏臼始終、他の実処を験して、他の如何なるかを看んと要す。這の僧却つて門を撐へ戸を拄ふるに似たり、所以に未だ他を見得ず。烏臼却つて云く、「屈棒、元来人の喫する有り」。這の僧、身を転じ気を吐かんと要す。却つて他と争はず、軽軽に転じて云く、「争奈せん、杓柄、和尚の手裏に在ることを」。烏臼は是れ頂門に眼を具する底の宗師なり。敢へて猛虎の口裏に向かつて身を横たへて云く、「汝若し要せば、山僧、汝に回与せん」。這の漢は是れ箇の肘下に符有る底の漢なり。所謂義を見て為さざるは勇無きなり。更に擬議せず、近前して烏臼の手中の棒を奪ひ、臼を打つこと三下。臼云く、「屈棒、屈棒」。爾且く道へ、意作麼生。頭上には「屈棒、元来人の喫する有り」と道ひ、這の僧の他を打つに到るに及んで、却つて「屈棒、屈棒」と道ふ。僧云く、「人の喫する有り」。臼云く、「草草に箇の漢を打著す」。頭上には「草草に一箇を打著す」と道ひ、末後に到つて自ら棒を喫す、什麼の為にか亦た「草草に箇の漢を打著す」と道ふ。当時若し是れ這の僧の卓朔地ならずんば、也た他を奈何ともせず。這の僧便ち礼拝す。這箇の礼拝最も毒なり、也た是れ好心にあらず。若し是れ烏臼ならずんば、也た他を識り破らず。烏臼云く、「却つて恁麼にし去るや」。其の僧大笑して出づ。烏臼云く、「恁麼なることを消得す、恁麼なることを消得す」。
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『碧巌録』第七十五則僧、定州和尚の会裏より烏臼に来到す。臼も亦た是れ作家なり。諸人、若し這裏に向かつて此の二人の一出一入を識得せば、千箇万箇も只だ是れ一箇なり。主と作るも也た恁麼、賓と作るも也た恁麼。二人畢竟合して一家と成る。一期の勘辨、賓主の問答、始終作家なり。看よ烏臼、這の僧に問うて云く、「定州の法道、這裏に何似」。僧便ち云く、「別ならず」。当時若し是れ烏臼ならずんば、這の僧を奈何ともし難からん。臼云く、「若し別ならずんば、更に彼中に転じ去れ」。便ち打つ。争奈せん、這の僧は是れ作家の漢なることを。便ち云く、「棒頭に眼有り、草草に人を打つことを得ざれ」。臼一向に令を行じて云く、「今日一箇を打著せり」。又た打つこと三下。其の僧便ち出で去る。看よ他の両箇、転轆轆地、倶に是れ作家なり。
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『碧巌録』第七十五則看よ他の作家の相見ゆること、始終賓主分明にして、断じて能く続く。其の実は也た只だ是れ互換の機なり。他は這裏に到つて、亦た箇の互換の処有りとも道はず。自ら是れ他の古人、情塵意想を絶して、彼此作家なり。亦た得有り失有りとも道はず。是れ一期間の語言なりと雖も、両個活鱍鱍地にして、都て血脈針線有り。若し能く此に於て見得せば、亦乃ち十二時中に向かつて歴歴分明ならん。其の僧便ち出づるは是れ双放、已下は是れ双収、之を互換と謂ふ。雪竇正に恁麼地に頌出す。
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『碧巌録』第二十二則雪竇頌して這裏に到って、更に妙処有り、云く、「南北東西討ぬるに処無し」。爾道へ、什麼の処にか在る。「忽然として拄杖頭を突出す」、元来只だ這裏に在り。爾便ち拄杖頭上に向かって活計を作し去るべからず。雲門拄杖を以て雪峰の面前に攛向して怕るる勢を作す。雲門便ち拄杖を以て鼈鼻蛇と作して用ふ。有る時は却って云く、「拄杖子化して龍と為り、乾坤を呑却し了れり。山河大地甚れの処よりか得来たる」と。只だ是れ一条の拄杖子、有る時は龍と作し、有る時は蛇と作す。什麼と為てか此の如くなる。這裏に到って方に知る、古人の「心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり」と道ふことを。頌に道ふ、「雪峰に抛対して大いに口を張る。大いに口を張ること閃電に同じ」。雪竇余才有って、雲門の毒蛇を拈出して云く、只だ這の大いに口を張ること閃電に同じきに相似たり、爾若し擬議せば、則ち喪身失命せんと。「眉毛を剔起するも還た見えず」、什麼の処に向かってか去る。雪竇頌し了って、須らく活処に去って人の為にすべし。雪峰の蛇を将って自ら拈じ自ら弄す、妨げず殺活時に臨むことを。見んと要すや。云く、「如今乳峰の前に蔵在す」。乳峰は乃ち雪竇の山の名なり。雪竇頌有り、云く、「石総四顧すれば滄溟窄し、寥寥として白雲の白きを許さず」。長慶・玄沙・雲門、弄し得了ると雖も見えず。却って云く、「如今乳峰の前に蔵在す、来る者は一一方便を看よ」。雪竇猶ほ廉繊に渉る在り。言はずして便ち用ひ、却って高声に喝して云く、「脚下を看よ」。従上来多少の人か拈弄する。且く道へ、還た曾て人を傷著するや、曾て人を傷著せざるや。師便ち打つ。
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