碧巌録 / 第二十八則
山僧常說。若是添一句。甜蜜蜜地。好好觀來。正是毒藥。若是劈脊便棒。驀口便摑。推將出去。方始親切為人。衲僧今古競頭走。到處是也問。不是也問。問佛問祖。問向上問向下。雖然如此。若未到這田地。也少不得。如明鏡當臺列像殊。只消一句。可辨明白。古人道。萬象及森羅。一法之所印。又道。森羅及萬象。總在箇中圓。神秀大師云。身是菩提樹。心如明鏡臺。時時勤拂拭。勿使惹塵埃。大滿云。他只在門外。雪竇恁麼道。且道在門內在門外。爾等諸人。各有一面古鏡。森羅萬象。長短方圓。一一於中顯現。爾若去長短處會。卒摸索不著。所以雪竇道。明鏡當臺列像殊。却須是一一面南看北斗。既是面南。為什麼却看北斗。若恁麼會得。方見百丈南泉相見處。此兩句頌百丈挨拶處。丈云我。又不是大善知識。爭知有說不說。雪竇到此頌得。落在死水裏。恐人錯會。却自提起云。即今目前斗柄垂。爾更去什麼處討。爾纔拈得鼻孔失却口。拈得口失却鼻孔了也。
新字:山僧常説。若是添一句。甜蜜蜜地。好好観来。正是毒薬。若是劈脊便棒。驀口便摑。推将出去。方始親切為人。衲僧今古競頭走。到処是也問。不是也問。問仏問祖。問向上問向下。雖然如此。若未到這田地。也少不得。如明鏡当台列像殊。只消一句。可弁明白。古人道。万象及森羅。一法之所印。又道。森羅及万象。総在箇中円。神秀大師云。身是菩提樹。心如明鏡台。時時勤払拭。勿使惹塵埃。大満云。他只在門外。雪竇恁麼道。且道在門内在門外。爾等諸人。各有一面古鏡。森羅万象。長短方円。一一於中顕現。爾若去長短処会。卒摸索不著。所以雪竇道。明鏡当台列像殊。却須是一一面南看北斗。既是面南。為什麼却看北斗。若恁麼会得。方見百丈南泉相見処。此両句頌百丈挨拶処。丈云我。又不是大善知識。争知有説不説。雪竇到此頌得。落在死水裏。恐人錯会。却自提起云。即今目前斗柄垂。爾更去什麼処討。爾纔拈得鼻孔失却口。拈得口失却鼻孔了也。
書き下し
山僧常に説く、若し是れ一句を添へば、甜蜜蜜地なるも、好好に観来たれば、正に是れ毒薬なり。若し是れ脊を劈いて便ち棒し、口に驀って便ち摑し、推し将ち出し去らば、方に始めて親切に人の為にす。「衲僧今古頭を競って走る」。到る処、是にも也た問ひ、不是にも也た問ひ、仏を問ひ祖を問ひ、向上を問ひ向下を問ふ。此の如くなりと雖然も、若し未だ這の田地に到らずんば、也た少くことを得ず。「明鏡台に当たって列像殊なり」、只だ一句を消ひて、明白を辨ずべし。古人道ふ、「万象及び森羅、一法の印する所なり」と。又道ふ、「森羅及び万象、総て箇中に在って円かなり」と。神秀大師云く、「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時時に勤めて払拭して、塵埃を惹かしむること勿れ」。大満云く、「他は只だ門外に在り」。雪竇恁麼に道ふ、且く道へ、門内に在るか門外に在るか。爾等諸人、各一面の古鏡有り、森羅万象、長短方円、一一中に於て顕現す。爾若し長短の処に去って会せば、卒に摸索不著ならん。所以に雪竇道ふ、「明鏡台に当たって列像殊なり」と。却って須らく是れ「一一南に面して北斗を看る」べし。既に是れ南に面す、什麼と為てか却って北斗を看る。若し恁麼に会得せば、方に百丈・南泉の相見の処を見ん。此の両句は百丈の挨拶の処を頌す。丈云く、「我は又是れ大善知識にあらず、争でか説と不説と有ることを知らん」。雪竇此に到って頌し得て、死水裏に落在す。人の錯って会せんことを恐れて、却って自ら提起して云く、即今目前「斗柄垂る」、爾更に什麼の処に去ってか討ねん。爾纔かに「鼻孔を拈得すれば口を失却し」、口を拈得すれば鼻孔を失却し了れり。
現代語訳
わたしはいつも言っている。もし一句を付け加えれば、甘ったるくて口当たりはよいが、よくよく見れば、まさしく毒薬である。もし背骨にまっすぐ棒を食らわせ、口に平手打ちを食らわせ、押し出してしまうなら、そこではじめて親身に人のためになるのだ、と。「禅僧は今も昔も先を争って走り回る」。至るところで、是についても問い、不是についても問い、仏を問い祖師を問い、向上を問い向下を問う。とはいえ、まだこの境地に到っていないなら、それも欠かすことはできない。「明るい鏡が台に掛かれば、映る像はそれぞれ異なる」は、ただ一句で、はっきりと見分けられる。古人は言った。「万象と森羅は、一つの法が印したものである」と。また言った。「森羅と万象は、すべてその中で円満である」と。神秀大師は言った。「身は菩提の樹、心は明るい鏡の台のようなもの。時々につとめて拭い払い、塵や埃をつけないようにせよ」。五祖弘忍は「彼はまだ門の外にいる」と言った。雪竇がこのように言うのは、さあ言え、門の内にいるのか門の外にいるのか。お前たち一人一人には一面の古い鏡があり、あらゆるものが、長いも短いも四角も丸も、一つ一つその中に映し出される。もしお前が長い短いのところで会得しようとすれば、ついに手探りしても届かない。だから雪竇は「明るい鏡が台に掛かれば、映る像はそれぞれ異なる」と言い、さらに「一つ一つ南に向かって北斗星を見よ」と言わねばならなかった。南に向かっているのに、なぜ北斗を見るのか。もしそのように会得できれば、はじめて百丈と南泉の出会ったところが見える。この二句は涅槃和尚が南泉に迫ったところを頌したものである。和尚は「わしは大善知識ではない。説いたか説かないかなど、どうして分かろうか」と言った。雪竇はここまで頌して、淀んだ水の中に落ちてしまった。人が誤って会得するのを恐れて、自らまた取り上げて言う。いま眼の前に「北斗の柄が垂れている」、お前はさらにどこへ探しに行くのか。お前が「鼻をつまみ取ったとたん、口を失い」、口をつまみ取れば鼻を失ってしまうのだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第六十五則雪竇道ふ、「明鏡忽ち台に臨めば、当下に妍醜を分かつ」と。這箇は曾て動著せず、只だ箇の良久を消ふるのみ。明鏡の台に臨むが如く相似て、万象其の形質を逃るること能はず。外道云く、「世尊大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」と。且く道へ是れ什麼の処か是れ外道の入処。這裏に到りては、須らく是れ箇箇自ら参じ自ら究め、自ら悟り自ら会して始めて得べし。便ち一切処に於いて、行住坐臥、高低を問はず、一時に現成して、更に一絲毫をも移易せず。纔かに計較を作し、一絲毫の道理有れば、即ち人を礙塞殺して、更に入作の分無し。後面に世尊の「大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」を頌して、「当下忽然として妍醜を分かつ。妍醜分かれて迷雲開く、慈門何れの処にか塵埃を生ぜん」と。尽大地は是れ世尊大慈大悲の門戸なり。爾若し透得せば一揑をも消ひず。此れ亦是れ放開底の門戸なり。見ずや、世尊三七日の中に於いて是くの如き事を思惟す、「我寧ろ法を説かず、疾く涅槃に入らん」と。「因みに思ふ良馬の鞭影を窺ふことを、千里の追風喚べば回り得」。追風の馬は鞭影を見て便ち千里を過ぐ。回らしむれば即ち回る。雪竇の意は他を賞して道ふ、「若し俊流を得ば、方に一撥に便ち転じ、一喚に便ち回るべし」と。若し喚べば回り得ば、便ち指を鳴らすこと三下。且く道へ是れ点破か、是れ撒沙か。
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『碧巌録』第二十八則若し是れ具眼の漢ならば、分明に験取せよ。且く道へ、作麼生か他を験さん。看よ雪竇頌出して云く、「祖仏従来人の為にせず、衲僧今古頭を競って走る。明鏡台に当たって列像殊なり、一一南に面して北斗を看よ。斗柄垂れて討ぬるに処無し、鼻孔を拈得して口を失却す」。釈迦老子出世して四十九年、未だ曾て一字をも説かず。光耀土より始まり、終に跋提河に至るまで、是の二の中間に於て、未だ嘗て一字をも説かず。恁麼に道ふ、且く道へ、是れ説くか是れ説かざるか。如今竜宮に満ち海蔵に盈つ。且く作麼生か是れ説かざる。豈に見ずや、修山主道ふ、「諸仏出世せずして、四十九年説く。達磨西来せずして、少林に妙訣有り」と。又道ふ、「諸仏曾て出世せず、亦一法の人に与ふる無し。但だ能く衆生の心を観じて、機に随って病に応じ、薬を与へ方を施す。遂に三乗十二分教有り」と。其の実、祖仏は古より今に至るまで、曾て人の為に説かず。只だ這の人の為にせざる、正に好し参詳するに。
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『碧巌録』第二十八則丈云く、「説き了れり」。惜しむべし、他の与に注破す。当時但だ脊を劈いて便ち棒し、他をして痛痒を知らしめん。是の如くなりと雖然も、爾且く道へ、什麼の処か是れ説く処。南泉の見処に拠らば、不是心・不是仏・不是物、曾て説著せず。且く爾諸人に問ふ、什麼に因ってか却って「説き了れり」と道ふ。他の語下に又蹤迹無し。若し他説かずと道はば、百丈什麼と為てか却って恁麼に道ふ。南泉は是れ変通底の人なり。便ち随後に一拶して云く、「某甲は只だ恁麼。和尚又作麼生」。若し是れ別人ならば、未だ分疎不下を免れず。争奈せん百丈は是れ作家にして、答処妨げず奇特なることを。便ち道ふ、「我は又是れ大善知識にあらず、争でか説と不説と有ることを知らん」。南泉便ち箇の「会せず」と道ふ。是れ渠果たして会し来たって「会せず」と道ふか、是れ真箇に会せざるにあらざるや。百丈云く、「我太殺だ爾が為に説き了れり」。且く道へ、什麼の処か是れ説く処。若し是れ泥団を弄する漢の時ならば、両箇淈淈渹渹たらん。若し是れ二り倶に作家の時ならば、明鏡の台に当たるが如し。其の実、前頭は二り倶に作家、後頭は二り倶に放過す。
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『碧巌録』第五十則雪竇、前面に雲門の対一説の話を頌して道ふ、「対一説、太だ孤絶。無孔の鉄鎚重ねて楔を下す」。後面に又馬祖の離四句絶百非の話を頌して道ふ、「蔵頭白く海頭黒し、明眼の衲僧も会し得ず」。若し此の公案に於いて透得せば、便ち這箇の頌を見ん。雪竇当頭に便ち道ふ、「鉢裏の飯、桶裏の水」。言中に響き有り、句裏に機を呈す。「多口の阿師も嘴を下し難し」。随後に便ち汝が与に注脚を下すなり。汝若し這裏に向かつて玄妙の道理を要求せば、計較転た嘴を下し難し。雪竇只だ這裏に到つて也た得し。他は恁麼に頭上に先づ把定することを愛す、恐らくは衆中に具眼の者有つて覷破せんことを。後面に到つて須らく一著を放過し、俯して初機の為に、打開して頌出し、人をして見せしむ。北斗は依旧として北に在り、南星は依旧として只だ南に在り。所以に道ふ、「北斗南星位殊ならず」。「白浪滔天平地に起こる」。忽然として平地上に波瀾を起こす、又作麼生。若し事上に向かつて覷れば則ち易く、若し意根下に向かつて尋ぬれば、卒に摸索不著。這箇は鉄橛子の如くに相似て、擺撥し得ず、嘴を挿し得ず。汝若し擬議して会せんと欲して会せず、止めて止まらずんば、乱りに懞袋を呈す。正に是れ箇箇無裩の長者子なり。寒山の詩に道ふ、「六極常に苦に嬰り、九維徒らに自ら論ず。才有るも草沢に遺れ、勢無くして蓬門を閉づ。日上れども巌猶ほ暗く、煙消えて谷尚ほ昏し。其の中の長者子、箇箇総て裩無し」。
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『碧巌録』第五則雪竇自然に他の古人を見る、只だ他の命脈上に去いて一劄を消して、他の与に頌出す。「牛頭没し馬頭回る」。且く道へ、箇の什麼をか説く。見得透する底は、早朝に粥を喫し、斎時に飯を喫するが如くに相似たり、只だ是れ尋常なり。雪竇慈悲、当頭に一鎚に撃砕し、一句に截断す。只だ是れ妨げず孤峻なることを。石火を撃つが如く閃電光に似たり。鋒鋩を露はさず、爾が湊泊の処無し。且く道へ、意根下に向つて摸索し得んや。此の両句一時に道ひ尽し了れり。雪竇第三句、却つて一線道を通じて、略ぼ些かの風規を露はす。早く是れ落草なり。第四句、直下に更に是れ落草なり。若し言上に言を生じ、句上に句を生じ、意上に意を生じて、解を作し会を作さば、唯だ老僧を帯累するのみにあらず、亦乃ち雪竇に辜負せん。古人の句は此の如くなりと雖も、意は此の如くならず。終に道理を作して人を繋縛せず。「曹渓鏡裏塵埃を絶す」。多少の人か道ふ、「静心便ち是れ鏡」と。且喜すらくは没交渉。只管に計較道理を作す、什麼の了期か有らん。這箇は是れ本分の説話、山僧敢へて本分に依らずんばあらず。「牛頭没し馬頭回る」、雪竇分明に説き了れり。自ら是れ人見ず。所以に雪竇此の如く郎当として頌して道ふ、「鼓を打つて看来れども君見ず」。癡人還た見るや。更に爾に向つて道ふ、「百花春至つて誰が為にか開く」。謂つべし戸牖を豁開して、爾が与に一時に八字に打開し了れりと。春来るに及んで、幽谷野澗、乃至人無き処にも、百花競ひ発く。爾且く道へ、更に誰が為にか開く。
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『碧巌録』第四十則南泉は小睡語、雪竇は大睡語。夢を作すと雖然も、却つて箇の好夢を作し得たり。前頭には一体を説き、這裏には不同を説く。聞見覚知一一に非ず、山河は鏡中に在りて観ず。若し鏡中に在りて観じて、然る後に方に曉了すと道はば、則ち鏡処を離れず。山河大地、草木叢林、鏡を将て鑑みること莫れ。若し鏡を将て鑑みれば、便ち両段と為る。但だ只だ山は是れ山、水は是れ水なるべし。法は法位に住して、世間の相常住なり。山河は鏡中に在りて観ず、且く道へ、什麼の処に向いてか観ん。還た会すや。這裏に到りて、霜天月落ちて夜将に半ばならんとするに向いて、這辺は爾が与に打併し了れり、那辺は爾自ら相度れ。還た雪竇の本分の事を以て人の為にすることを知るや。誰と共にか澄潭影を照らして寒き。為復自ら照らすか、為復人と共に照らすか。須らく是れ機を絶し解を絶して、方に這の境界に到るべし。即今も也た澄潭を要せず、也た霜天月落を待たず。即今作麼生。
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