碧巌録 / 第六十五則
翠巖真點胸拈云。六合九。有青黃赤白。一一交羅外道會四維陀典論。自云。我是一切智人。在處索人論議。他致問端。要坐斷釋迦老子舌頭。世尊不費纖毫氣力。他便省去。讚歎云。世尊大慈大悲。開我迷雲。令我得入且道作麼生。是大慈大悲處。世尊隻眼通三世。外道雙眸貫五天。溈山真如拈云。外道懷藏至寶。世尊親為高提。森羅顯現。萬象歷然。且畢竟外道悟箇什麼。如趁狗逼牆。至極則無路處。他須回來。便乃活鱍鱍地。若計較是非。一時放下情盡見除。自然徹底分明。外道去後。阿難問佛云。外道有何所證而言得入。佛云。如世良馬見鞭影而行。後來諸方便道。又被風吹別調。中又云。龍頭蛇尾。什麼處是世尊鞭影。什麼處是見鞭影處。雪竇云。邪正不分。過由鞭影。真如云。阿難金鐘再擊。四眾共聞。雖然如是。大似二龍爭珠。長他智者威獰。雪竇頌云。
新字:翠巖真点胸拈云。六合九。有青黄赤白。一一交羅外道会四維陀典論。自云。我是一切智人。在処索人論議。他致問端。要坐断釈迦老子舌頭。世尊不費繊毫気力。他便省去。讃嘆云。世尊大慈大悲。開我迷雲。令我得入且道作麼生。是大慈大悲処。世尊隻眼通三世。外道双眸貫五天。溈山真如拈云。外道懐蔵至宝。世尊親為高提。森羅顕現。万象歴然。且畢竟外道悟箇什麼。如趁狗逼牆。至極則無路処。他須回来。便乃活鱍鱍地。若計較是非。一時放下情尽見除。自然徹底分明。外道去後。阿難問仏云。外道有何所証而言得入。仏云。如世良馬見鞭影而行。後来諸方便道。又被風吹別調。中又云。竜頭蛇尾。什麼処是世尊鞭影。什麼処是見鞭影処。雪竇云。邪正不分。過由鞭影。真如云。阿難金鐘再撃。四衆共聞。雖然如是。大似二竜争珠。長他智者威獰。雪竇頌云。
書き下し
翠巌真、胸を点じて拈じて云く、「六合九有、青黄赤白有りて一一交羅す」と。外道は四維陀典論を会し、自ら云く、「我は是れ一切智の人なり」と。在処に人を索めて論議す。他、問端を致して、釈迦老子の舌頭を坐断せんと要す。世尊は纖毫の気力をも費やさず、他便ち省し去りて、讃歎して云く、「世尊大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」と。且く道へ作麼生か是れ大慈大悲の処。世尊の隻眼は三世に通じ、外道の双眸は五天を貫く。溈山真如拈じて云く、「外道は至宝を懐蔵し、世尊親しく為に高く提ぐ。森羅顕現し、万象歴然たり」と。且く畢竟外道は箇の什麼をか悟る。狗を趁ひて牆に逼るが如く、極に至れば則ち路無き処、他須らく回り来たるべし、便乃ち活鱍鱍地なり。若し是非を計較することを一時に放下すれば、情尽き見除こりて、自然に徹底分明ならん。外道去りて後、阿難仏に問うて云く、「外道は何の所証有りてか得入すと言ふ」。仏云く、「世の良馬の鞭影を見て行くが如し」。後来諸方便ち道ふ、「又風に別調に吹かる」と。又云く、「龍頭蛇尾」と。什麼の処か是れ世尊の鞭影、什麼の処か是れ鞭影を見る処。雪竇云く、「邪正分かたず、過は鞭影に由る」と。真如云く、「阿難の金鐘再び撃ち、四衆共に聞く」と。是くの如くなりと雖然も、大いに二龍の珠を争ひて、他の智者の威獰を長ずるに似たり。雪竇頌して云く、
現代語訳
翠巌可真は自分の胸を指して取り上げて言った。「天地四方と九つの世界に、青・黄・赤・白があって、一つ一つ交わり連なっている」と。外道は四ヴェーダの典籍に通じ、自ら「私はすべてを知る者だ」と言って、至る所で人を求めて論争していた。彼は問いを発して、釈迦老子の舌を封じようとした。世尊は少しの力も使わず、彼はすぐに悟って、讃えて言った。「世尊は大慈大悲をもって、私の迷いの雲を開き、私を悟りに入らせてくださいました」と。さて言ってみよ、何が大慈大悲のところか。世尊の片眼は三世を通し、外道の両眼は全インドを貫いている。溈山真如は取り上げて言った。「外道は至宝を懐に蔵し、世尊は自ら彼のために高く掲げてやった。森羅が現れ、万象が歴然としている」と。さて結局、外道は何を悟ったのか。犬を追って垣根に追い詰めるように、極まって道のないところに至れば、彼は必ず振り返って戻ってくる。そこがそのまま生き生きとしている。是非を計り比べることを一度に放下すれば、情が尽き見解が除かれて、自然に底まで明らかになる。外道が去った後、阿難が仏に問うて言った。「外道はどんな悟りを得て、悟りに入ったと言ったのですか」。仏は言った。「世の良い馬が鞭の影を見て走り出すようなものだ」。後に諸方では「また風に吹かれて別の調子になった」と言い、また「頭は龍で尾は蛇だ」と言う。どこが世尊の鞭の影で、どこが鞭の影を見たところか。雪竇は言う、「邪と正を分けなかった、過ちは鞭の影による」と。真如は言う、「阿難は金の鐘を再び撃ち、四衆がともに聞いた」と。とはいえ、まるで二匹の龍が珠を争って、かえって智者の威勢を高めてやっているようなものだ。雪竇は頌して言う。
解説
この章句が説くこと
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『碧巌録』第六十五則挙す。外道、仏に問ふ、「有言を問はず、無言を問はず」。世尊良久す。外道讃歎して云く、「世尊大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」。外道去りて後、阿難、仏に問ふ、「外道は何の所証有りてか、而も得入すと言ふ」。仏云く、「世の良馬の鞭影を見て行くが如し」。
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『碧巌録』第六十五則雪竇道ふ、「明鏡忽ち台に臨めば、当下に妍醜を分かつ」と。這箇は曾て動著せず、只だ箇の良久を消ふるのみ。明鏡の台に臨むが如く相似て、万象其の形質を逃るること能はず。外道云く、「世尊大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」と。且く道へ是れ什麼の処か是れ外道の入処。這裏に到りては、須らく是れ箇箇自ら参じ自ら究め、自ら悟り自ら会して始めて得べし。便ち一切処に於いて、行住坐臥、高低を問はず、一時に現成して、更に一絲毫をも移易せず。纔かに計較を作し、一絲毫の道理有れば、即ち人を礙塞殺して、更に入作の分無し。後面に世尊の「大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」を頌して、「当下忽然として妍醜を分かつ。妍醜分かれて迷雲開く、慈門何れの処にか塵埃を生ぜん」と。尽大地は是れ世尊大慈大悲の門戸なり。爾若し透得せば一揑をも消ひず。此れ亦是れ放開底の門戸なり。見ずや、世尊三七日の中に於いて是くの如き事を思惟す、「我寧ろ法を説かず、疾く涅槃に入らん」と。「因みに思ふ良馬の鞭影を窺ふことを、千里の追風喚べば回り得」。追風の馬は鞭影を見て便ち千里を過ぐ。回らしむれば即ち回る。雪竇の意は他を賞して道ふ、「若し俊流を得ば、方に一撥に便ち転じ、一喚に便ち回るべし」と。若し喚べば回り得ば、便ち指を鳴らすこと三下。且く道へ是れ点破か、是れ撒沙か。
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『碧巌録』第十八則多少の人か道ふ、国師の言はざる処、便ち是れ塔様と。若し恁麼に会せば、達磨の一宗、地を掃うて尽きん。若し良久便ち是なりと謂はば、唖子も也た合に禅を会すべし。豈に見ずや、外道仏に問ふ、有言を問はず、無言を問はず。世尊良久す。外道礼拝し、讃嘆して曰く、世尊大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむと。外道去りて後に及んで、阿難仏に問ふ、外道何の所証有りてか得入すと言ふ。世尊云く、世の良馬の鞭影を見て行くが如し。人多く良久の処に向かつて会す、什麼の巴鼻か有らん。五祖先師拈じて云く、前面は是れ珍珠瑪瑙、後面は是れ瑪瑙珍珠。左辺は是れ観音勢至、右辺は是れ文殊普賢。中間に箇の旛子有りて、風に吹著せられて、胡盧胡盧と道ふ。国師云く、会すや。帝曰く、会せず。却つて些子に較れり。且く道へ、這箇の不会と、武帝の不識と、是れ同か是れ別か。然りと雖も、似たることは則ち似たるも、是なることは則ち未だ是ならず。
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『無門関』第三十二則 外道問佛世尊、外道の問ふに因る、「有言を問はず、無言を問はず」。世尊據座す。外道贊歎して云く、「世尊の大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして入るを得しむ」。乃ち具(つぶさ)に禮して去る。阿難尋(つ)いで佛に問ふ、「外道何の證する所有りてか贊歎して去る」。世尊云く、「世の良馬の鞭影を見て行くが如し」。
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『碧巌録』第六十五則機輪曾て未だ転ぜず、転ずれば必ず両頭に走る。明鏡忽ち台に臨めば、当下に妍醜を分かつ。妍醜分かれて迷雲開く、慈門何れの処にか塵埃を生ぜん。因みに思ふ良馬の鞭影を窺ふことを、千里の追風喚べば回り得。喚べば回り得、指を鳴らすこと三下。「機輪曾て未だ転ぜず、転ずれば必ず両頭に走る」。機は乃ち千聖の霊機、輪は是れ従本已来諸人の命脈なり。見ずや古人道ふ、「千聖の霊機は親しみ易からず、龍は龍子を生む、因循すること莫かれ。趙州奪ひ得たり連城の璧、秦王も相如も総に身を喪ふ」と。外道は却つて是れ把得住し作得主して、未だ嘗て動著せず。何が故ぞ。他道ふ、「有言を問はず、無言を問はず」と。豈に是れ全機の処にあらずや。世尊は会く風を看て帆を使ひ、病に応じて薬を与ふ。所以に良久して全機提起す。外道全体会し去りて、機輪便ち阿轆轆地に転ず。亦有に転向せず、亦無に転向せず、得失に落ちず、凡聖に拘はらず、二辺一時に坐断す。世尊纔かに良久すれば、他便ち礼拝す。如今の人多く無に落在し、然らざれば有に落在して、只管に有無の処に在りて両頭に走る。
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『碧巌録』第八十四則咄、這の維摩老、悲生じて空しく懊悩す。疾に毘耶離に臥し、全身太だ枯槁す。七仏の祖師来る、一室且く頻りに掃ふ。不二の門を請問す、当時便ち靠倒す。靠倒せず、金毛の獅子討ぬるに処無し。雪竇道ふ、「咄、這の維摩老」と。頭上に先づ一咄を下して什麼をか作す。金剛王宝剣を以て、当頭に直截す。須らく朝に打つこと三千、暮に打つこと八百にして始めて得べし。梵語に維摩詰と云ふ、此には無垢称と云ひ、亦た浄名と云ふ。乃ち過去の金粟如来なり。見ずや、僧、雲居簡和尚に問ふ、「既に是れ金粟如来ならば、什麼と為てか却つて釈迦如来の会中に於て法を聴く」。簡云く、「他は人我を争はず。大解脱の人は成仏と成仏せざるとに拘はらず」と。若し他は修行して仏道を成ずることを務むと道はば、転た没交渉なり。譬へば円覚経に云ふが如し、「輪廻の心を以て輪廻の見を生じ、如来の大寂滅海に入らんとするも、終に至ること能はず」と。永嘉云く、「或は是、或は非、人識らず、逆行順行、天も測る莫し」と。若し順行せば則ち仏果位の中に趣き、若し逆行せば則ち衆生の境界に入る。寿禅師道ふ、「直饒ひ爾磨錬して這の田地に到り得るも、亦た未だ汝が意に順ふ可からざること在り。直に無漏の聖身を証するを待つて、始めて逆行順行す可し」と。所以に雪竇道ふ、悲生じて空しく懊悩すと。維摩経に云く、「衆生病有るが為の故に、我も亦た病有り」と。懊悩は則ち悲絶なり。
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