碧巌録 / 第五十四則
雲門問這僧。近離甚處。僧云。西禪。這箇是當面話。如閃電相似。門云。近日有何言句。也只是平常說話。這僧也不妨是箇作家。却倒去驗雲門。便展兩手。若是尋常人遭此一驗。便見手忙脚亂。他雲門有石火電光之機。便打一掌。僧云。打即故是。爭奈某甲話在。這僧有轉身處。所以雲門放開。却展兩手。其僧無語。門便打。看他雲門自是作家。行一步知一步落處。會瞻前亦解顧後。不失蹤由。這僧只解瞻前不能顧後。頌云。
新字:雲門問這僧。近離甚処。僧云。西禅。這箇是当面話。如閃電相似。門云。近日有何言句。也只是平常説話。這僧也不妨是箇作家。却倒去験雲門。便展両手。若是尋常人遭此一験。便見手忙脚乱。他雲門有石火電光之機。便打一掌。僧云。打即故是。争奈某甲話在。這僧有転身処。所以雲門放開。却展両手。其僧無語。門便打。看他雲門自是作家。行一歩知一歩落処。会瞻前亦解顧後。不失蹤由。這僧只解瞻前不能顧後。頌云。
書き下し
雲門、這の僧に問ふ、「近離甚れの処ぞ」。僧云く、「西禅」。這箇は是れ当面の話、閃電の如くに相似たり。門云く、「近日何の言句か有る」。也た只だ是れ平常の説話なり。這の僧も也た妨げず是れ箇の作家なることを。却つて倒に去いて雲門を験し、便ち両手を展ぶ。若し是れ尋常の人ならば、此の一験に遭うて、便ち手忙脚乱を見ん。他の雲門は石火電光の機有り、便ち打つこと一掌す。僧云く、「打つことは即ち故より是なるも、争奈せん某甲の話在ることを」。這の僧転身の処有り。所以に雲門放開して、却つて両手を展ぶ。其の僧無語。門便ち打つ。看よ他の雲門は自ら是れ作家、一歩を行いて一歩の落処を知る。会く前を瞻て亦た解く後を顧み、蹤由を失はず。這の僧は只だ前を瞻ることを解して、後を顧みること能はず。頌に云く。
現代語訳
雲門がこの僧に「最近どこから来たか」と問い、僧は「西禅からです」と答えた。これは面と向かった話で、稲妻のようである。雲門は「近ごろどんな言葉があるか」と言った。これもまたふだんの話にすぎない。この僧もなかなかの手練れであった。かえって逆に雲門を試して、両手を広げた。もし並の人がこの試しに遭えば、手足をばたつかせてうろたえたことだろう。雲門は火打ち石の火花や稲妻のような機をもっていて、すぐに平手で一発打った。僧は「打たれるのはもっともですが、わたくしの話がまだあるのはどうしてくれますか」と言った。この僧には身を転じるところがある。だから雲門は手をゆるめて、かえって自分が両手を広げた。その僧は何も言えず、雲門はすぐに打った。見よ、雲門はもとより名人で、一歩を進めればその一歩の落ち着く先を知っている。前を見ることができ、また後ろを顧みることもでき、足跡を失わない。この僧は前を見ることはできても、後ろを顧みることができなかった。頌にいう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第五十四則挙す。雲門、僧に問ふ、「近離甚れの処ぞ」。僧云く、「西禅」。門云く、「西禅近日何の言句か有る」。僧、両手を展ぶ。門、打つこと一掌す。僧云く、「某甲話在り」。門却つて両手を展ぶ。僧無語。門便ち打つ。
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『碧巌録』第五十四則雪竇、此の話を頌し得て極めて会し易し。大意は只だ雲門の機鋒を頌す。所以に道ふ、「虎頭虎尾一時に収む」と。古人云く、「虎頭に拠り虎尾を収む、第一句下に宗旨を明らむ」と。雪竇只だ欵に拠つて案を結す。雲門の会く虎頭に拠り、又た能く虎尾を収むることを愛す。僧両手を展べ、門便ち打つは、是れ虎頭に拠るなり。雲門両手を展べ、僧無語、門又た打つは、是れ虎尾を収むるなり。頭尾斉しく収め、眼は流星に似て、自然に石火を撃つが如く、閃電光に似たり。直に得たり凜凜たる威風四百州。直に尽大地の世界をして風颯颯地たらしむ。「却つて問ふ、知らず何ぞ太だ嶮なる」。妨げず嶮しき処有ることを。雪竇云く、「一著を放過す」。且く道へ、如今放過せざる時又た作麼生。尽大地の人、総に須らく棒を喫すべし。如今の禅和子、総に道ふ、「他の手を展ぶる時を等つて、也た他に本分の草料を還す」と。似たることは則ち也た似たるも、是なることは則ち未だ是ならず。雲門は只だ恁麼に爾をして休せしむべからず。也た須らく別に事在るべし。
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『碧巌録』第十五則這の僧妨げず是れ箇の作家なることを、解く恁麼に問ふ。頭辺は之を請益と謂ひ、此れは是れ呈解の問、亦た之を蔵鋒の問と謂ふ。若し是れ雲門ならずんば、也た他を奈何ともせず。雲門這般の手脚有り。他既に問を将ち来たる、已むことを得ずして之に応ず。何が故ぞ、作家の宗師は明鏡の台に臨むが如く、胡来たれば胡現じ、漢来たれば漢現ず。古人道ふ、親切を得んと欲せば、問を将ち来たりて問ふこと莫かれ。何が故ぞ、問は答処に在り、答は問処に在り。従上の諸聖、何ぞ曾て一法の人に与ふる有らん。那裏にか禅道の爾が与にし来たる有らん。爾若し地獄の業を造らずんば、自然に地獄の果を招かず。爾若し天堂の因を造らずんば、自然に天堂の果を受けず。一切の業縁、皆是れ自作自受なり。
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『碧巌録』第二十一則古人道ふ、「仏性の義を識らんと欲せば、当に時節因縁を観ずべし」と。見ずや、雲門挙す、僧、霊雲に問ふ、「仏未だ出世せざる時如何」。雲、払子を竪起す。僧云く、「出世の後如何」。雲亦払子を竪起す。雲門云く、「前頭は打著し、後頭は打不著」。又云く、「出と不出とを説かず、何処にか伊が問ふ時節有らん」と。古人の一問一答は、時に応じ節に応じて、許多の事無し。爾若し言を尋ね句を逐はば、了に交渉無し。爾若し能く言中に言を透得し、意中に意を透得し、機中に機を透得して、放ちて閑閑地ならしめば、方に智門の答話の処を見ん。
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『碧巌録』第八十三則雲門大師、八十余員の善知識を出す。遷化の後七十余年、塔を開いて之を観るに、儼然として故の如し。他の見地明白にして、機境迅速なり。大凡そ垂語・別語・代語、直下に孤峻なり。只だ這の公案、石火を撃つが如く、閃電光に似たり、直に是れ神出鬼没なり。慶蔵主云く、「一大蔵教に還た這般の説話有りや」と。如今の人、多く情解上に向つて活計を作して道ふ、「仏は是れ三界の導師、四生の慈父なり。既に是れ古仏ならば、什麼と為てか却つて露柱と相交はる」と。若し恁麼に会せば、卒に摸索不著ならん。有る者は喚んで無中に唱出すと作す。殊に知らず、宗師家の説話は、意識を絶し情量を絶し、生死を絶し法塵を絶し、正位に入つて更に一法をも存せざることを。爾纔かに道理計較を作さば、便ち脚を纏ひ手を纏はん。且く道へ、他の古人の意作麼生。但だ只だ心境一如ならしむれば、好悪是非、他を撼動し得ず。便ち有と説くも也た得、無と説くも也た得、有機も也た得、無機も也た得。這裏に到つては拍拍是れ令なり。五祖先師道ふ、「大小の雲門、元来胆小なり。若し是れ山僧ならば、只だ他に向つて第八機と道はん」と。他道ふ、「古仏と露柱と相交はる、是れ第幾機ぞ」と。一時間且く目前に向つて包裹す。僧問ふ、「未審、意旨如何」。門云く、「一条の絛、三十文にて買ふ」。他に乾坤を定むる底の眼有り。既に人の会する無し、後来自ら代はりて云く、「南山に雲を起こし、北山に雨を下す」と。且く後学の与に箇の入路を通ず。所以に雪竇只だ他の乾坤を定むる処を拈じて人をして見せしむ。若し纔かに計較を犯して箇の鋒鋩を露はさば、則ち当面に蹉過せん。只だ他の雲門の宗旨を原ね、他の峻機を明らめんことを要す。所以に頌出して云く、
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『碧巌録』第二則這の僧出で来る、也た妨げず奇特なることを。趙州の空処を捉へて、便ち去いて他を拶す、「既に明白裏に在らずんば、箇の什麼をか護惜せん」。趙州更に棒を行ぜず喝を行ぜず、只だ道ふ、「我も亦た知らず」。若し是れ這の老漢にあらずんば、他に拶著せられて、往往に前を忘れ後を失せん。頼に是れ這の老漢、転身自在の処有り、所以に此の如く他に答ふ。如今の禅和子、問著すれば也た道ふ、「我も亦た知らず、不会」と。争奈せん途を同じうして轍を同じうせざることを。這の僧奇特の処有り、方に始めて問ふことを会す、「和尚既に知らずんば、什麼と為てか却つて明白裏に在らずと道ふ」。更に好き一拶なり。若し是れ別人ならば、往往に分疏不下ならん。趙州は是れ作家、只だ他に向つて道ふ、「事を問ふことは即ち得たり。礼拝し了つて退け」。這の僧依旧として這の老漢を奈何ともすること無く、只だ気を飲み声を呑むことを得たり。此れは是れ大手の宗師、爾と玄を論じ妙を論じ、機を論じ境を論ぜず、一向に本分の事を以て人を接す。所以に道ふ、「相罵らば爾が嘴を接ぐに饒し、相唾せば爾が水を潑ぐに饒す」。殊に知らず、這の老漢、平生棒喝を以て人を接せず、只だ平常の言語を以てすることを。只だ是れ天下の人奈何ともせず。蓋し他の平生許多の計較無きが為に、所以に横拈倒用、逆行順行、大自在を得たり。如今の人理会し得ず、只管に道ふ、「趙州答話せず、人の為に説かず」と。殊に知らず、当面に蹉過することを。
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