碧巌録 / 第二十四則
這老婆會他溈山說話。絲來線去。一放一收。互相酬唱。如兩鏡相照。無影像可觀。機機相副。句句相投。如今人三搭不迴頭。這老婆一點也瞞他不得。這箇却不是世諦情見。如明鏡當臺。明珠在掌。胡來胡現。漢來漢現。是他知有向上事。所以如此。如今只管做無事會。四祖演和尚道。莫將有事為無事。往往事從無事生。爾若參得透去。見他恁麼如尋常人說話一般。多被言語隔礙。所以不會。唯是知音方會他底只如乾峯示眾云。舉一不得舉二。放過一著落在第二。雲門出眾云。昨日有一僧。從天台來却往南岳去。乾峯云。典座今日不得普請。看他兩人。放則雙放。收則雙收。溈仰下謂之境致。風塵草動。悉究端倪。亦謂之隔身句。意通而語隔。到這裏。須是左撥右轉方是作家。
新字:這老婆会他溈山説話。糸来線去。一放一収。互相酬唱。如両鏡相照。無影像可観。機機相副。句句相投。如今人三搭不迴頭。這老婆一点也瞞他不得。這箇却不是世諦情見。如明鏡当台。明珠在掌。胡来胡現。漢来漢現。是他知有向上事。所以如此。如今只管做無事会。四祖演和尚道。莫将有事為無事。往往事従無事生。爾若参得透去。見他恁麼如尋常人説話一般。多被言語隔礙。所以不会。唯是知音方会他底只如乾峯示衆云。舉一不得舉二。放過一著落在第二。雲門出衆云。昨日有一僧。従天台来却往南岳去。乾峯云。典座今日不得普請。看他両人。放則双放。収則双収。溈仰下謂之境致。風塵草動。悉究端倪。亦謂之隔身句。意通而語隔。到這裏。須是左撥右転方是作家。
書き下し
這の老婆、他の潙山の説話を会し、糸来たり線去り、一放一収、互ひに相酬唱すること、両鏡の相照らして影像の観るべき無きが如し。機機相副ひ、句句相投ず。如今の人は三たび搭するも頭を迴らさず。這の老婆、一点も也た他を瞞き得ず。這箇は却って是れ世諦の情見にあらず。明鏡の台に当たり、明珠の掌に在るが如く、胡来たれば胡現じ、漢来たれば漢現ず。是れ他向上の事有ることを知る、所以に此の如し。如今只管に無事の会を做す。四祖演和尚道ふ、「有事を将って無事と為すこと莫れ、往往事は無事より生ず」と。爾若し参得して透り去らば、他の恁麼なるを見ること、尋常の人の説話の如く一般ならん。多く言語に隔礙せらる、所以に会せず。唯だ是れ知音のみ方に他底を会す。只だ乾峰衆に示して云く、「一を挙して二を挙することを得ず。一著を放過すれば第二に落在す」。雲門衆を出でて云く、「昨日一僧有り、天台より来たって却って南岳に往き去る」。乾峰云く、「典座、今日普請することを得ざれ」。看よ他の両人、放てば則ち双び放ち、収むれば則ち双び収む。潙仰の下には之を境致と謂ふ。風塵草動、悉く端倪を究む。亦之を隔身の句と謂ふ。意通じて語隔たる。這裏に到って、須らく是れ左に撥し右に転じて方に是れ作家なるべし。
現代語訳
この老婆は潙山の話を会得して、糸が来れば線が行くように、一つ放ち一つ収めて、互いに応酬し合った。それは二枚の鏡が照らし合って、映る影など見当たらないようなものである。働きと働きが寄り添い、句と句がぴたりと合う。今の人は三度叩いても振り向きもしない。この老婆は、ほんの少しも潙山にごまかされることがなかった。これは世俗の情による見方ではない。明るい鏡が台に掛かり、明るい珠が掌にあるようなもので、胡人が来れば胡人が映り、漢人が来れば漢人が映る。彼女は向上の事があることを知っていたから、このようであったのだ。今の人はひたすら何事もないと理解している。四祖山の法演和尚は言った。「事のあるものを事のないものとしてはならない。しばしば事は何事もないところから生まれる」と。もしお前が参究して突き抜けたなら、彼らのこうしたやりとりを、ふつうの人の世間話と同じように見るだろう。多くの人は言葉に隔てられ妨げられるから、会得できないのだ。ただ真に音を知る者だけが彼らの境地を会得する。たとえば乾峰が修行僧たちに示して言った。「一を挙げて二を挙げてはならない。一手を見逃せば第二義に落ちる」。雲門が進み出て言った。「昨日一人の僧がいて、天台山から来てまた南岳へ行きました」。乾峰は言った。「典座よ、今日は作務をしてはならない」。見よ、この二人を。放つときはともに放ち、収めるときはともに収める。潙仰宗ではこれを境致という。風が塵を立て草が動くことにも、ことごとく糸口を究める。またこれを隔身の句という。意味は通じていて、言葉は隔たっている。ここに至っては、左に払い右に転じることができてこそ、腕の立つ者である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第二十四則劉鉄磨は石火を撃つが如く、閃電光に似たり。擬議すれば則ち喪身失命す。禅道若し緊要の処に到らば、那裏にか許多の事有らん。他作家相見ゆること、牆を隔てて角を見れば便ち是れ牛なることを知り、山を隔てて煙を見れば便ち是れ火なることを知るが如し。拶著すれば便ち動き、捺著すれば便ち転ず。潙山道ふ、「老僧百年の後、山下の檀越の家に向かって一頭の水牯牛と作らん。左脇の下に五字を書して云はん、潙山の僧某甲と。且く正当恁麼の時、喚んで潙山の僧と作さば即ち是れ水牯牛、喚んで水牯牛と作さば即ち是れ潙山の僧」と。如今の人問著せられば、管取す分疎不下ならん。劉鉄磨は久参にして機鋒峭峻なり、人号して劉鉄磨と為す。潙山を去ること十里にして庵を卓つ。一日去って潙山を訪ふ。山来たるを見て便ち云く、「老牸牛、汝来たるや」。磨云く、「来日台山に大会斎あり、和尚還た去るや」。潙山身を放って便ち臥す。磨便ち出で去る。爾看よ、他の一に説話するが如くに相似たるを。且つ是れ禅にあらず、又是れ道にあらず。喚んで無事と作して会し得んや。潙山台山に去ること、自ら数千里を隔つ。劉鉄磨什麼に因ってか却って潙山をして斎に去らしむる。且く道へ、意旨如何。
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『碧巌録』第三十四則人の端的を験する処、口を下せば便ち音を知る。古人道ふ、没量の大人も、語脈裏に向いて転却せらると。若し是れ頂門に眼を具せば、挙著すれば便ち落処を知る。看よ他の一問一答、歴歴分明なることを。雲門什麼としてか却つて道ふ、此の語は皆慈悲の為の故に、落草の談有りと。古人這裏に到りては、明鏡の台に当たり、明珠の掌に在るが如し。胡来たれば胡現じ、漢来たれば漢現ず。一箇の蠅子も也た他の鑑を過ぎ得ず。且く道へ、作麼生か是れ慈悲の為の故に落草の談有る。也た険峻なることを妨げず。這の田地に到りては、也た須らく是れ箇の漢にして始めて提掇すべし。雲門拈じて云く、這の僧親しく廬山より来る、什麼に因りてか却つて道ふ、闍黎曾て山に遊ばずと。溈山一日仰山に問うて云く、諸方若し僧の来る有らば、汝什麼を将てか他を験せん。仰山云く、某甲験する処有り。溈山云く、子試みに挙し看よ。仰云く、某甲尋常僧の来るを見ては、只だ払子を挙して伊に向かつて道ふ、諸方還た這箇有りやと。伊が語有るを待ちて、只だ伊に向かつて道ふ、這箇は即ち且く置く、那箇は如何と。溈山云く、此れは是れ向上人の牙爪なり。
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