碧巌録 / 第十五則
八萬四千非鳳毛者。靈山八萬四千聖眾。非鳳毛也。南史云。宋時謝超宗。陳郡陽夏人。謝鳳之子。博學文才傑俊。朝中無比。當世為之獨步。善為文為王府常侍。王母殷淑儀薨。超宗作誄奏之。武帝見其文。大加嘆賞曰。超宗殊有鳳毛。古詩云。朝罷香煙携滿袖。詩成珠玉在揮毫。欲知世掌絲綸美。池上如今有鳳毛。昔日靈山會上四眾雲集。世尊拈花。唯迦葉獨破顏微笑。餘者不知是何宗旨。雪竇所以道。八萬四千非鳳毛。三十三人入虎穴。阿難問迦葉云。世尊傳金襴袈裟外。別傳何法。迦葉召阿難。阿難應喏。迦葉云。倒却門前剎竿著。阿難遂悟。已後祖祖相傳。西天此土。三十三人。有入虎穴底手脚。古人道。不入虎穴。爭得虎子。
新字:八万四千非鳳毛者。霊山八万四千聖衆。非鳳毛也。南史云。宋時謝超宗。陳郡陽夏人。謝鳳之子。博学文才傑俊。朝中無比。当世為之独歩。善為文為王府常侍。王母殷淑儀薨。超宗作誄奏之。武帝見其文。大加嘆賞曰。超宗殊有鳳毛。古詩云。朝罷香煙携満袖。詩成珠玉在揮毫。欲知世掌糸綸美。池上如今有鳳毛。昔日霊山会上四衆雲集。世尊拈花。唯迦葉独破顔微笑。余者不知是何宗旨。雪竇所以道。八万四千非鳳毛。三十三人入虎穴。阿難問迦葉云。世尊伝金襴袈裟外。別伝何法。迦葉召阿難。阿難応喏。迦葉云。倒却門前刹竿著。阿難遂悟。已後祖祖相伝。西天此土。三十三人。有入虎穴底手脚。古人道。不入虎穴。争得虎子。
書き下し
八万四千鳳毛に非ずとは、霊山の八万四千の聖衆、鳳毛に非ざるなり。南史に云く、宋の時謝超宗、陳郡陽夏の人、謝鳳の子なり。博学にして文才傑俊、朝中に比無く、当世之が為に独歩す。善く文を為り、王府の常侍と為る。王母殷淑儀薨ず。超宗誄を作りて之を奏す。武帝其の文を見て、大いに嘆賞を加へて曰く、超宗殊に鳳毛有りと。古詩に云く、朝罷みて香煙携へて袖に満ち、詩成りて珠玉揮毫に在り。世々糸綸を掌るの美を知らんと欲せば、池上如今鳳毛有り。昔日霊山会上、四衆雲集す。世尊花を拈ず。唯だ迦葉のみ独り破顔微笑す。余の者は是れ何の宗旨なるかを知らず。雪竇所以に道ふ、八万四千鳳毛に非ず、三十三人虎穴に入ると。阿難、迦葉に問うて云く、世尊金襴の袈裟を伝ふる外、別に何の法をか伝ふ。迦葉、阿難と召す。阿難応諾す。迦葉云く、門前の刹竿を倒却著せよ。阿難遂に悟る。已後祖祖相伝へて、西天此土三十三人、虎穴に入る底の手脚有り。古人道ふ、虎穴に入らずんば、争でか虎子を得ん。
現代語訳
「八万四千の聖衆も鳳凰の羽ではない」とは、霊鷲山の八万四千の聖衆も鳳凰の羽、すなわち父の才を受け継ぐ者ではなかったということである。『南史』にいう。宋の時代の謝超宗は陳郡陽夏の人で、謝鳳の子であった。博学で文才に秀で、朝廷に並ぶ者がなく、当時ひとり抜きんでていた。文章に巧みで、王府の常侍となった。王の母の殷淑儀が亡くなったとき、超宗は誄を作って奏上した。武帝はその文を見て大いに感嘆し、「超宗にはまことに鳳の羽がある」と言った。古詩にいう、「朝議が終わると香の煙を袖いっぱいに携え、詩ができれば筆の先に珠玉がある。代々詔勅の起草を司る家柄の美しさを知りたければ、今池のほとりに鳳の羽がある」。昔、霊鷲山の法会に四衆が雲のように集まった。世尊が花を拈じると、ただ迦葉だけがひとりにっこりと微笑んだ。ほかの者はそれが何の宗旨なのかわからなかった。だから雪竇は「八万四千の聖衆も鳳凰の羽ではなく、三十三人の祖師が虎の穴に入った」と言うのである。阿難が迦葉に問うた。「世尊は金襴の袈裟を伝えられたほかに、別にどんな法を伝えられたのですか」。迦葉が「阿難よ」と呼ぶと、阿難は「はい」と応えた。迦葉は「門前の説法の旗竿を倒してしまえ」と言った。阿難はそこで悟った。それ以来、祖師から祖師へと伝えて、インドと中国の三十三人の祖師には、虎の穴に入る手並みがあった。古人は「虎の穴に入らなければ、どうして虎の子を得られようか」と言った。
解説
この章句が説くこと
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『武士道』第十六章 武士道の命脈・七百年に蓄積したる動量其メーソニック・サイン明亮なることは、個々の間、暗号を有せずしてなお能く直ちに感通するを得るに足るものあり、となす。武士道の我国民、特に士林に印象したる性格は、之を以て種属の具有する不変の要素を形成するものなりと称するを得ずと雖、なお之れが活力を保有せることは、復た疑を容れず。武士道もしただ物理力に過ぎずとすとも、なお既往七百年の間に蓄積したる動量は、俄然停止するを得べきに非ず。武士道はただ遺伝によりてのみ継承したりとすとも、其感化の範囲はすこぶる広大ならずんばあらず。試みに思へ、仏国経済学者ケソン氏が、仮に一世紀を人間三代と定めて打算せば、『吾人は各自其血管中に、紀元一千年に生存したる、少くも二千万人の血液を伝ふるものなり』と云へるを。
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