碧巌録 / 第九則
殊不知。祖師未來時。那裏喚天作地。喚山作水。來為什麼祖師更西來。諸方陞堂入室。說箇什麼。盡是情識計較。若是情識計較。情盡方見得透。若見得透。依舊天是天。地是地。山是山。水是水。古人道。心是根。法是塵。兩種猶如鏡上痕。到這箇田地。自然淨裸裸赤灑灑。若極則理論。也未是安穩處在。到這裏。人多錯會。打在無事界裏。佛也不禮。香也不燒。似則也似。爭奈脫體不是。纔問著。却是極則相似纔拶著。七花八裂。坐在空腹高心處。及到臘月三十日。換手搥胸。已是遲了也。
新字:殊不知。祖師未来時。那裏喚天作地。喚山作水。来為什麼祖師更西来。諸方陞堂入室。説箇什麼。尽是情識計較。若是情識計較。情尽方見得透。若見得透。依旧天是天。地是地。山是山。水是水。古人道。心是根。法是塵。両種猶如鏡上痕。到這箇田地。自然浄裸裸赤灑灑。若極則理論。也未是安穏処在。到這裏。人多錯会。打在無事界裏。仏也不礼。香也不焼。似則也似。争奈脱体不是。纔問著。却是極則相似纔拶著。七花八裂。坐在空腹高心処。及到臘月三十日。換手搥胸。已是遅了也。
書き下し
殊に知らず、祖師未だ来らざる時、那裏にか天を喚んで地と作し、山を喚んで水と作し来る。什麼としてか祖師更に西来する。諸方陞堂入室して、箇の什麼をか説く。尽く是れ情識計較なりや。若し是れ情識計較ならば、情尽きて方に見得透せん。若し見得透せば、旧に依つて天は是れ天、地は是れ地、山は是れ山、水は是れ水。古人道ふ、「心は是れ根、法は是れ塵、両種猶ほ鏡上の痕の如し」。這箇の田地に到つて、自然に浄裸裸赤灑灑たり。若し極則の理論ならば、也た未だ是れ安穏の処にあらざること在り。這裏に到つて、人多く錯り会して、無事界裏に打在して、仏も也た礼せず、香も也た焼かず。似ることは則ち也た似たるも、争奈せん脱体是ならざることを。纔かに問著すれば、却つて是れ極則に相似たるも、纔かに拶著すれば、七花八裂して、空腹高心の処に坐在す。臘月三十日に到るに及んで、手を換へて胸を搥つも、已に是れ遅し。
現代語訳
まったくわかっていないのだ。祖師がまだ来ない時、どこで天を地と呼び、山を水と呼んだことがあったか。それなのに、なぜ祖師はわざわざ西から来たのか。諸方の師家が法堂に上り室に入って、何を説いているのか。それがすべて情識の計らいだというのか。もし情識の計らいであるなら、情が尽きてこそ見て透ることができる。見て透れば、以前のとおり天は天、地は地、山は山、水は水である。古人は言った、「心は根であり、法は塵である。両者はちょうど鏡の上の曇りのようなものだ」と。この境地に至れば、自然にすっかり裸で何の覆いもない。もしそれを究極の理論とするなら、それもまだ安穏の場所ではない。ここに至って、人の多くは誤解して無事の世界の中に落ち込み、仏も礼拝せず、香も焚かない。似ていることは似ているが、まるごと正しくないのをどうしようもない。ちょっと問いかけられると究極の境地のように見えるが、ちょっと突っ込まれると、ばらばらに砕けて、腹は空っぽなのに心だけ高ぶった所に座り込んでいる。大晦日に至って、手を替えて胸を打っても、もう遅いのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第九則遠録公云く、「末後の一句、始めて牢関に到る。指南の旨は言詮に在らず。十日に一風、五日に一雨、邦を安んじ業を楽しみ、腹を鼓して謳歌す。之を太平の時節と謂ひ、之を無事と謂ふ」。是れ拍盲にして便ち無事と道ふにあらず。須らく是れ関捩子を透過し、荊棘林を出得て、浄裸裸赤灑灑、依前として平常の人に似て、由爾として有事も也た得、無事も也た得、七縦八横、終に無を執し有を定めざるべし。有る般底の人道ふ、「本来一星の事無し、但只だ茶に遇へば茶を喫し、飯に遇へば飯を喫す」と。此れは是れ大妄語なり。之を未だ得ざるを得たりと謂ひ、未だ証せざるを証せりと謂ふと謂ふ。元来曾て参得透せず。人の心を説き性を説き玄を説き妙を説くを見て、便ち道ふ、「只だ是れ狂言、本来無事」と。謂つべし、一盲衆盲を引くと。
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『碧巌録』第八十則古人道ふ、「衲被頭を蒙うて万事休す、此の時山僧都て会せず」と。若し能く此の如くならば、方に少分の相応有らん。然も此の如くなりと雖も、争奈せん一点も也た他を瞞じ得ざることを。山は依旧として是れ山、水は依旧として是れ水。造作無く、縁慮無し。日月の太虚に運りて未だ嘗て暫くも止まざるが如く、亦た我に許多の名相有りと道はず。天の普く蓋ふが如く、地の普く擎ぐるに似たり。無心なるが為の故に、所以に万物を長養す。亦た我に許多の功行有りと道はず。天地は無心なるが為の故に、所以に長久なり。若し心有らば則ち限斉有り。得道の人も亦復た是の如し。無功用の中に於て功用を施し、一切の違情順境、皆慈心を以て摂受す。這裏に到つて、古人尚自ほ呵責して道ふ、「了了了たる時了ずべき無し、玄玄玄なる処直に須らく呵すべし」と。又た道ふ、「事事通じ物物明らかなり、達者之を聞いて暗裏に驚く」と。又た云ふ、「聖に入り凡を超えて声を作さず、臥竜長に碧潭の清きを怖る。人生若し長く此の如くなるを得ば、大地那ぞ能く一名を留めん」と。
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『碧巌録』第四十五則如今の人尽く無事の会を作す。有る底は道ふ、「迷ひ無く悟り無し、更に求むることを要せず。只だ仏未だ出世せざりし時、達磨未だ此の土に来たらざりし時の如きも、恁麼ならずんばあるべからず」。仏の出世を用ひて什麼か作ん、祖師更に西来して什麼か作ん。総て此くの如くんば、什麼の干渉か有らん。也た須らく是れ大徹大悟し了つて、依旧として山は是れ山、水は是れ水、乃至一切万法悉く皆成現して、方始めて箇の無事底の人と作るべし。見ずや龍牙道ふ、「道を学ぶは先づ須らく悟由有るべし、還つて曾て快龍舟を闘はすが如し。旧閣の閑田地なりと雖然も、一度贏ち来たつて方始めて休す」。只だ趙州の這箇の七斤の布衫の話子の如き、看よ他の古人恁麼に道ふ、金の如く玉の如し。山僧恁麼に説き、諸人恁麼に聴く、総て是れ上載。且く道へ、作麼生か是れ下載。三条椽下に看取せよ。
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『碧巌録』第九則大凡参禅問道は、自己を明究せんことを要す。切に言句を揀択することを忌む。何が故ぞ。見ずや、趙州挙して道ふ、「至道無難、唯揀択を嫌ふ」。又見ずや、雲門道ふ、「如今の禅和子、三箇五箇頭を聚めて口喃喃地にして、便ち道ふ、這箇は是れ上才の語句、那箇は是れ身に就く処に打出する語と」。知らず、古人方便門中に、初機後学の未だ心地を明らめず、未だ本性を見ざるが為に、已むことを得ずして箇の方便の語句を立つることを。祖師西来して、単伝心印、直指人心、見性成仏するが如きは、那裏にか此の如き葛藤あらん。須らく是れ語言を斬断し、格外に諦を見て、透脱し得去るべし。謂つべし、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たりと。久参の先徳、見る有つて未だ透らず、透つて未だ明らかならざる、之を請益と謂ふ。若し是れ見得透つて請益せば、却つて語句上に周旋して、凝滞有ること無からんことを要す。久参の請益は、賊に梯を過す。其の実、此の事は言句上に在らず。所以に雲門道ふ、「此の事若し言句上に在らば、三乗十二分教、豈に是れ言句無からんや。何ぞ達磨の西来を須ひん」。
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『碧巌録』第二則垂示に云く、乾坤窄く、日月星辰一時に黒し。直饒ひ棒雨点の如く、喝雷奔に似たるも、也た未だ向上宗乗中の事に当得せず。設使ひ三世の諸仏も只だ自ら知るべく、歴代の祖師も全提不起、一大蔵教も詮注不及、明眼の衲僧も自救不了。這裏に到つて、作麼生か請益せん。箇の仏の字を道ふも、泥を拖き水を帯ぶ。箇の禅の字を道ふも、満面慚惶す。久参の上士は之を言ふことを待たず、後学初機は直に須らく究取すべし。
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『碧巌録』第六十則只だ雲門の道ふが如き、「拄杖子化して竜と為り、乾坤を呑却し了れり。山河大地甚れの処よりか得来たる」。若し有りと道へば則ち瞎し、若し無しと道へば則ち死す。還た雲門の人の為にする処を見るや。我に拄杖子を還し来たれ。如今の人は他の雲門の独露の処を会せず、却つて道ふ、「色に即して心を明らめ、物に附して理を顕す」と。且く釈迦老子四十九年の説法の如き、此の議論を知らざるべからず。何が故ぞ、更に拈花を用ひ、迦葉微笑す。這の老漢便ち搽胡して道ふ、「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶大迦葉に分付す」と。更に何ぞ必ずしも心印を単伝せん。諸人既に是れ祖師門下の客、還た単伝底の心を明らめ得たりや。胸中若し一物有らば、山河大地、摐然として現前す。胸中若し一物無くんば、外は則ち了に糸毫も無し。什麼の理と智と冥し、境と神と会すとか説かん。何が故ぞ。一会一切会、一明一切明。長沙道ふ、「学道の人真を識らざるは、只だ従前より識神を認むるが為なり。無量劫来生死の本、癡人喚んで本来人と作す」と。忽若し陰界を打破せば、身心一如、身外に余り無きも、猶ほ未だ一半を得ざること在り。什麼の色に即して心を明らめ、物に附して理を顕すとか説かん。
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