碧巌録 / 第六則
徐行踏斷流水聲。徐徐行動時。浩浩流水聲。也應踏斷。縱觀寫出飛禽跡。縱目一觀。直饒是飛禽跡亦如寫出相似。到這裏。鑊湯爐炭吹教滅。劍樹刀山喝便摧。不為難事。雪竇到此。慈悲之故。恐人坐在無事界中。復道。草茸茸煙羃羃。所以蓋覆却直得草茸茸。煙羃羃。且道是什麼人境界。喚作日日是好日得麼。且喜沒交涉。直得徐行踏斷流水聲也不是。縱觀寫出飛禽跡也不是。草茸茸也不是。煙羃羃也不是。直饒總不恁麼。正是空生巖畔花狼籍。也須是轉過那邊始得。
新字:徐行踏断流水声。徐徐行動時。浩浩流水声。也応踏断。縦観写出飛禽跡。縦目一観。直饒是飛禽跡亦如写出相似。到這裏。鑊湯炉炭吹教滅。剣樹刀山喝便摧。不為難事。雪竇到此。慈悲之故。恐人坐在無事界中。復道。草茸茸煙羃羃。所以蓋覆却直得草茸茸。煙羃羃。且道是什麼人境界。喚作日日是好日得麼。且喜没交渉。直得徐行踏断流水声也不是。縦観写出飛禽跡也不是。草茸茸也不是。煙羃羃也不是。直饒総不恁麼。正是空生巖畔花狼籍。也須是転過那辺始得。
書き下し
「徐ろに行いて踏断す流水の声」。徐徐に行動する時、浩浩たる流水の声も、也た応に踏断すべし。「縦に観て写出す飛禽の跡」。目を縦にして一観すれば、直饒ひ是れ飛禽の跡も亦た写出するが如くに相似たり。這裏に到つては、鑊湯炉炭も吹いて滅せしめ、剣樹刀山も喝して便ち摧く、難事と為さず。雪竇此に到つて、慈悲の故に、人の無事界中に坐在せんことを恐れて、復た道ふ、「草茸茸、煙羃羃」。所以に蓋覆却して、直に草茸茸、煙羃羃たることを得たり。且く道へ、是れ什麼人の境界ぞ。喚んで日日是れ好日と作して得んや。且喜すらくは没交渉。直に徐ろに行いて流水の声を踏断するも也た是ならず、縦に観て飛禽の跡を写出するも也た是ならず、草茸茸も也た是ならず、煙羃羃も也た是ならざることを得たり。直饒ひ総て恁麼ならざるも、正に是れ空生巌畔花狼籍なり。也た須らく是れ那辺に転過して始めて得べし。
現代語訳
「ゆっくり歩いて流れる水の音を踏み断つ」。ゆるゆると行動するとき、滔々と流れる水の音も踏み断つことができる。「自在に眺めて飛ぶ鳥の跡を描き出す」。目をほしいままにして一たび見渡せば、たとえ飛ぶ鳥の跡でも描き出すようである。ここに至っては、煮えたぎる釜や燃える炭も吹き消し、剣の樹や刀の山も一喝で砕くことは、難しい事ではない。雪竇はここに至って、慈悲のゆえに、人が無事の境地の中に坐り込むのを恐れて、さらに「草はぼうぼうと茂り、靄は深く垂れこめる」と言った。それゆえ覆い隠して、ただ草がぼうぼう、靄が深々というありさまになった。さあ言ってみよ、これは誰の境地か。これを「日々これ好日」と呼んでよいか。まったく見当違いである。ゆっくり歩いて流水の音を踏み断つのも違う、自在に眺めて飛ぶ鳥の跡を描くのも違う、草がぼうぼうも違う、靄が深々も違う、ということになる。たとえそのすべてがそうでなくても、まさに「須菩提の岩のほとりに花が散り乱れる」ありさまである。さらにその向こう側へと転じ過ぎてこそよいのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第六則一を去却し、七を拈得す。上下四維等匹無し。徐ろに行いて踏断す流水の声、縦に観て写出す飛禽の跡。草茸茸、煙羃羃。空生巌畔花狼籍。弾指して悲しむに堪へたり舜若多。動著すること莫れ。動著せば三十棒。
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『碧巌録』第六則箇の問頭を垂れて衆に示して云く、「十五日已前は汝に問はず、十五日已後、一句を道ひ将ち来れ」。千差を坐断して凡聖を通ぜず。自ら代つて云く、「日日是れ好日」。十五日已前、這の語已に千差を坐断す。十五日已後、這の語も也た千差を坐断す。是れ他明日は是れ十六と道はず。後人只管に語に随つて解を生ず、什麼の交渉か有らん。他雲門箇の宗風を立つ、須らく是れ箇の人の為にする処有るべし。垂語し了つて、却つて自ら代つて云く、「日日是れ好日」。此の語古今を通貫し、前より後に至るまで、一時に坐断す。山僧此の如く説話するも、也た是れ語に随つて解を生ず。他殺は自殺に如かず。纔かに道理を作せば、坑に墮ち塹に落つ。雲門一句の中に三句倶に備はる。蓋し是れ他家の宗旨此の如し。一句の語を垂るるに、須らく宗に帰することを要す。若し此の如くならずんば、只だ是れ杜撰なり。此の事に許多の論説無し。而るに未だ透らざる者は、却つて此の如くならんことを要す。若し透得せば、便ち古人の意旨を見ん。雪竇の葛藤を打するを看取せよ。
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『碧巌録』第六則挙す。雲門垂語して云く、「十五日已前は汝に問はず、十五日已後、一句を道ひ将ち来れ」。自ら代つて云く、「日日是れ好日」。
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『碧巌録』第二則雪竇余才有り、所以に分開して結裹し算へ来る。也た只だ是れ頭上に頭を安くのみ。道ふ、「至道無難、言端語端、一に多種有り、二に両般無し」。許多の事無しと雖も、天際日上る時月便ち下り、檻前山深き時水便ち寒し。這裏に到つて、言も也た端、語も也た端、頭頭是れ道、物物全く真なり。豈に是れ心境倶に忘じ、打成一片する処にあらずや。雪竇頭上太だ孤峻生、末後也た漏逗すること少なからず。若し参得透し見得徹せば、自然に醍醐の上味の如くに相似たらん。若し是れ情解未だ忘ぜずんば、便ち七花八裂を見ん。決定して此の如きの説話を会すること能はじ。
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『碧巌録』第六則且く道へ、作麼生か是れ第一句。這裏に到つて、雪竇些かの意を露はして人をして見せしむ。爾但だ上に諸仏有ることを見ず、下に衆生有ることを見ず、外に山河大地有ることを見ず、内に見聞覚知有ることを見ず、大死底の人の却つて活するが如くに相似たらば、長短好悪、打成一片して、一一拈じ来るに更に異見無し。然る後に応用其の宜しきを失はず、方に他の「一を去却し、七を拈得す、上下四維等匹無し」と道ふを見ん。若し此の句に於て透得せば、直に上下四維に等匹有ること無きことを得ん。森羅万象、草芥人畜、著著全く自己の家風を彰す。所以に道ふ、「万象の中独り露はるる身、惟だ人自ら肯ひて乃ち方に親し。昔年謬つて途中に向つて覓む、今日看来れば火裏の氷」。天上天下唯我独尊。人多く末を逐うて其の本を求めず。先づ本正しきことを得ば、自然に風行き草偃し、水到り渠成る。
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『碧巌録』第二十五則又云く、「眼裏に須弥山を著け得、耳裏に大海水を著け得。一般の漢有って、人の商量を受く。祖仏の言教、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり。却って須らく鉢嚢を挑起し、拄杖を横担すべし。亦是れ一員の無事の道人なり」。復た云く、「恁麼も也た得ず、不恁麼も也た得ず。然る後交渉没し。三員の無事の道人の中、一人を選んで師と為さんと要す」。正に是れ這般の生鉄鋳就底の漢なり。何が故ぞ。或いは悪境界に遇ひ、或いは奇特の境界に遇ふも、他の面前に到れば、悉く皆夢の如くに相似たり。六根有ることを知らず、亦旦暮有ることを知らず。直饒ひ這般の田地に到るも、切に忌む寒灰死火を守って、黒漫漫の処に打入し去ることを。也た須らく是れ転身の一路有って始めて得べし。見ずや、古人道ふ、「寒巌に異草の青きを守ること莫れ。白雲に坐却せば宗妙ならず」と。所以に蓮華峰庵主道ふ、「他の途路に力を得ざるが為なり」と。直に須らく是れ千峰万峰に去って始めて得べし。且く道へ、什麼を喚んでか千峰万峰と作す。雪竇只だ他の「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」と道ふを愛す。所以に頌出す。且く道へ、什麼の処に向かってか去る。還た去処を知り得る者有りや。「落花流水太だ茫茫」。落花紛紛、流水茫茫、閃電の機、眼前是れ什麼ぞ。「眉毛を剔起して何れの処にか去る」。雪竇什麼と為てか也た他の去処を知らざる。只だ山僧適来払子を挙すと道ふが如き、且く道へ、即今什麼の処にか在る。爾諸人若し見得せば、蓮華峰庵主と同参ならん。其れ或いは未だ然らずんば、三条椽下、七尺単前に、試みに去って参詳し看よ。
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