碧巌録 / 第六則
豈不見。須菩提巖中宴坐。諸天雨花讚嘆。尊者曰。空中雨花讚嘆。復是何人天曰。我是天帝釋。尊者曰。汝何讚嘆。天曰。我重尊者善說般若波羅蜜多。尊者曰。我於般若。未嘗說一字。汝云何讚歎。天曰。尊者無說。我乃無聞。無說無聞。是真般若。又復動地雨花。雪竇亦曾有頌云。雨過雲凝曉半開。數峯如畫碧崔嵬。空生不解巖中坐。惹得天花動地來。天帝既動地雨花。到這裏。更藏去那裏。雪竇又道我恐逃之逃不得。大方之外皆充塞。忙忙擾擾知何窮。八面清風惹衣裓。直得淨裸裸赤洒洒。都無纖毫過患。也未為極則。且畢竟如何即是。看取下文云。彈指堪悲舜若多。梵語舜若多。此云虛空神。以虛空為體。無身覺觸。得佛光照方現得身。爾若得似舜若多神時。雪竇正好彈指悲歎。又云。莫動著。動著時如何。白日青天。開眼瞌睡。
新字:豈不見。須菩提巖中宴坐。諸天雨花讃嘆。尊者曰。空中雨花讃嘆。復是何人天曰。我是天帝釈。尊者曰。汝何讃嘆。天曰。我重尊者善説般若波羅蜜多。尊者曰。我於般若。未嘗説一字。汝云何讃嘆。天曰。尊者無説。我乃無聞。無説無聞。是真般若。又復動地雨花。雪竇亦曽有頌云。雨過雲凝暁半開。数峯如画碧崔嵬。空生不解巖中坐。惹得天花動地来。天帝既動地雨花。到這裏。更蔵去那裏。雪竇又道我恐逃之逃不得。大方之外皆充塞。忙忙擾擾知何窮。八面清風惹衣裓。直得浄裸裸赤洒洒。都無繊毫過患。也未為極則。且畢竟如何即是。看取下文云。弾指堪悲舜若多。梵語舜若多。此云虚空神。以虚空為体。無身覚触。得仏光照方現得身。爾若得似舜若多神時。雪竇正好弾指悲嘆。又云。莫動著。動著時如何。白日青天。開眼瞌睡。
書き下し
豈に見ずや、須菩提巌中に宴坐す、諸天花を雨らして讃歎す。尊者曰く、「空中に花を雨らして讃歎するは、復た是れ何人ぞ」。天曰く、「我は是れ天帝釈なり」。尊者曰く、「汝何ぞ讃歎する」。天曰く、「我尊者の善く般若波羅蜜多を説くことを重んず」。尊者曰く、「我般若に於て未だ嘗て一字をも説かず、汝云何ぞ讃歎する」。天曰く、「尊者は無説、我は乃ち無聞。無説無聞、是れ真の般若なり」。又復た地を動かし花を雨らす。雪竇も亦た曾て頌有りて云く、「雨過ぎ雲凝つて暁半ば開く、数峰画の如く碧崔嵬。空生巌中に坐することを解せず、惹き得たり天花の地を動かし来るを」。天帝既に地を動かし花を雨らす、這裏に到つて、更に那裏にか蔵し去らん。雪竇又道ふ、「我恐る之を逃るるも逃れ得ざることを、大方の外皆充塞す。忙忙擾擾知んぬ何の窮まりかある、八面の清風衣裓に惹く」。直に浄裸裸赤洒洒、都て繊毫の過患無きことを得るも、也た未だ極則と為さず。且く畢竟如何なるか即ち是なる。下文を看取して云く、「弾指して悲しむに堪へたり舜若多」。梵語の舜若多、此には虚空神と云ふ。虚空を以て体と為し、身の覚触無し。仏光の照らすことを得て方に身を現じ得。爾若し舜若多神に似ることを得る時は、雪竇正に好し弾指して悲歎するに。又云く、「動著すること莫れ」。動著する時如何。白日青天、眼を開いて瞌睡す。
現代語訳
見たことがないか。須菩提が岩の中で静かに坐っていると、天人たちが花を降らせて讃嘆した。尊者は言った。「空中から花を降らせて讃嘆するのは誰か」。天は言った。「わたしは帝釈天です」。尊者は言った。「そなたはなぜ讃嘆するのか」。天は言った。「わたしは尊者が般若波羅蜜多をみごとに説かれたことを尊ぶのです」。尊者は言った。「わたしは般若について一字も説いたことはない。そなたはどうして讃嘆するのか」。天は言った。「尊者は説くことなく、わたしは聞くことがない。説くことなく聞くことなきこと、これこそ真の般若です」。そしてまた大地を揺るがし花を降らせた。雪竇もかつて頌を作って言った。「雨が過ぎ雲が凝って夜明けの空が半ば開く。いくつもの峰が絵のように青く高くそびえる。須菩提は岩の中で坐ることを心得ず、天の花が大地を揺るがして降るのを招いてしまった」。帝釈天が大地を揺るがし花を降らせたからには、ここに至ってさらにどこに隠れようか。雪竇はまた言う。「わたしは恐れる、逃れようとしても逃れられないことを。大いなる方の外まで、すべてに満ちふさがっている。せわしく騒がしく、いったいどこに果てがあろうか。八方からの清らかな風が衣の裾にまといつく」。まさに素っ裸で、毛筋ほどの過ちもない境地を得ても、なお究極ではない。では結局どうすればよいのか。下の文を見よ。「指を弾いて悲しむべし、舜若多」。梵語の舜若多は、こちらでは虚空神という。虚空を体とし、身に感覚がない。仏の光に照らされてはじめて身を現すことができる。お前がもし舜若多神のようになったら、雪竇はちょうど指を弾いて悲しみ嘆くところである。また「動いてはならない」と言う。動いたらどうなるか。白昼の青空の下で、目を開けたまま居眠りしている。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第九十則人天此より空生を見る。見ずや、須菩提、巌中に宴坐す。諸天花を雨らして讃歎す。尊者云く、「空中に花を雨らして讃歎するは、復た是れ何人ぞ」。天云く、「我は是れ梵天なり」。尊者云く、「汝云何が讃歎する」。天云く、「我れ尊者の善く般若波羅蜜多を説くことを重んず」。尊者云く、「我れ般若に於て未だ嘗て一字をも説かず、汝云何が讃歎する」。天云く、「尊者は説くこと無く、我は乃ち聞くこと無し。無説無聞、是れ真の般若なり」。又た復た地を動かし花を雨らす。看よ他の須菩提、善く般若を説き、且く体用を説かず。若し此に於て見得せば、便ち智門の「蚌、明月を含む」「兔子、胎を懐む」と道ふを見る可し。古人の意は言句上に在らずと雖も、争奈せん答処に深深の旨有ることを。雪竇を惹き得て「蚌は玄兔を含む深深の意」と道はしむ。這裏に到つて曾て禅家の与に戦争を作す。天下の禅和子、鬧浩浩地に商量すれども、未だ嘗て一人の夢見ること有らざること在り。若し智門・雪竇と同参せんと要せば、也た須らく是れ自ら眼を著けて始めて得べし。
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『碧巌録』第六則一を去却し、七を拈得す。上下四維等匹無し。徐ろに行いて踏断す流水の声、縦に観て写出す飛禽の跡。草茸茸、煙羃羃。空生巌畔花狼籍。弾指して悲しむに堪へたり舜若多。動著すること莫れ。動著せば三十棒。
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『碧巌録』第六則「徐ろに行いて踏断す流水の声」。徐徐に行動する時、浩浩たる流水の声も、也た応に踏断すべし。「縦に観て写出す飛禽の跡」。目を縦にして一観すれば、直饒ひ是れ飛禽の跡も亦た写出するが如くに相似たり。這裏に到つては、鑊湯炉炭も吹いて滅せしめ、剣樹刀山も喝して便ち摧く、難事と為さず。雪竇此に到つて、慈悲の故に、人の無事界中に坐在せんことを恐れて、復た道ふ、「草茸茸、煙羃羃」。所以に蓋覆却して、直に草茸茸、煙羃羃たることを得たり。且く道へ、是れ什麼人の境界ぞ。喚んで日日是れ好日と作して得んや。且喜すらくは没交渉。直に徐ろに行いて流水の声を踏断するも也た是ならず、縦に観て飛禽の跡を写出するも也た是ならず、草茸茸も也た是ならず、煙羃羃も也た是ならざることを得たり。直饒ひ総て恁麼ならざるも、正に是れ空生巌畔花狼籍なり。也た須らく是れ那辺に転過して始めて得べし。
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『碧巌録』第九十七則胡漢来らず、全く伎倆無し。雪竇鼻孔を裂転す。也た胡漢来る有らば、則ち爾をして現ぜしむ。若し忽ち胡漢俱に来らざる時、又且つ如何。這裏に到りては、仏眼も也た覷れども見えず。且く道へ、是れ功勲か是れ罪業か、是れ胡か是れ漢か。直に羚羊の角を掛くるに似て、声響蹤跡は道ふこと莫れ、気息も也た無し。什麼の処に向いてか摸索せん。諸天をして花を捧ぐるに路無く、魔外をして潜かに覷ふに門無からしむるに至る。是の故に洞山和尚、一生院に住するに、土地神他の蹤跡を覓むれども見えず。一日厨前に米麺を抛撒す。洞山心を起して曰く、「常住の物色、何ぞ作践すること此の如くなるを得ん」。土地神遂に一見することを得て便ち礼拝す。雪竇道ふ、「伎倆既に無し」と。若し此の伎倆無き処に到らば、波旬も也た途を失せしむ。世尊は一切衆生を以て赤子と為す。若し一人有りて発心修行すれば、波旬の宮殿、之が為に振裂す。他便ち来りて修行者を悩乱す。雪竇道ふ、直饒ひ波旬恁麼に来るも、也た須らく途路を失却して近傍する処無からしむべしと。雪竇更に自ら胸を点じて云く、「瞿曇瞿曇、我を識るや也た無や」。是れ波旬と道ふこと莫れ、任是ひ仏来るも、還た我を識るや也た無や。釈迦老子すら尚自ほ見ず、諸人什麼の処に向いてか摸索せん。復た云く、「勘破し了れり」。且く道へ、是れ雪竇瞿曇を勘破するか、瞿曇雪竇を勘破するか。具眼の者試みに定当し看よ。
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『碧巌録』第六則雪竇の頌古、偏へに能く此の如し。当頭に金剛王宝剣を以て、揮ふこと一下し了つて、然る後に略ぼ些かの風規を露はす。然も此の如くなりと雖も、畢竟二解有ること無し。「一を去却し、七を拈得す」。人多く算数の会を作して道ふ、「一を去却するは是れ十五日已前の事」と。雪竇驀頭に両句の言語を下して印破し了り、却つて露出して人をして見せしむ。「一を去却し、七を拈得す」。切に忌む言句中に向つて活計を作すことを。何が故ぞ。胡餅に什麼の汁か有らん。人多く意識の中に落在す。須らく是れ語句未だ生ぜざる已前に向つて会取して始めて得べし。大用現前して、自然に見得せん。所以に釈迦老子成道の後、摩竭提国に於て、三七日の中、是の如き事を思惟す、「諸法寂滅の相、言を以て宣ぶべからず。我寧ろ法を説かずして、疾く涅槃に入らん」。這裏に到つて箇の口を開く処を覓むるも得ず。方便力を以ての故に、五比丘の為に説き已つて、三百六十会に至るまで、一代時教を説く。只だ是れ方便なり。所以に珍御の服を脱ぎ、弊垢の衣を著け、已むことを得ずして、第二義門中の浅近の処に向つて、諸子を誘引す。若し他をして向上全提せしめば、尽大地に一箇半箇も無からん。
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『六祖壇経』般若品第二吾が頌を聴け、曰く、説通及び心通は、日の虚空に処するが如し。唯だ見性の法を伝へ、世に出でて邪宗を破す。法には即ち頓漸無し、迷悟に遅疾有り。只だ此の見性の門、愚人は悉くすべからず。説くことは即ち万般なりと雖も、理に合すれば還た一に帰す。煩悩の暗宅の中、常に須らく慧日を生ずべし。邪来れば煩悩至り、正来れば煩悩除く。邪正倶に用ひざれば、清浄にして無余に至る。菩提は本自性なり、心を起せば即ち是れ妄なり。浄心は妄の中に在り、但だ正しければ三障無し。世人若し道を修せば、一切尽く妨げず。常に自ら己が過を見れば、道と即ち相当る。色類自ら道有り、各相妨げ悩まさず。道を離れて別に道を覓むれば、終生道を見ず。波波として一生を度り、到頭(つまるところ)還た自ら懊む。真道を見んと欲得せば、正を行ずる即ち是れ道なり。自ら若し道心無くば、闇に行きて道を見ず。若し真に修道の人ならば、世間の過を見ず。若し他人の非を見ば、自らの非却つて是れ左(たが)ふ。他は非なるも我は非とせず、我が非は自ら過有り。但だ自ら非心を却(しりぞ)け、煩悩を打除して破れ。憎愛心に関せず、長く両脚を伸べて臥す。他人を化せんと擬欲せば、自ら須らく方便有るべし。彼をして疑ひ有らしむること勿れ、即ち是れ自性現ず。仏法は世間に在り、世間を離れずして覚る。世を離れて菩提を覓むるは、恰も兎角を求むるが如し。正見を出世と名づけ、邪見を世間と名づく。邪正尽く打却すれば、菩提の性宛然たり。此の頌は是れ頓教、亦大法船と名づく。迷ひて聞けば経ること累劫、悟れば則ち刹那の間なり。師復た曰く、「今大梵寺に於て此の頓教を説く。普く願はくは法界の衆生、言下に見性成仏せんことを」と。時に韋使君と官僚道俗、師の説く所を聞きて、省悟せざる無し。一時に礼を作し、皆善き哉と嘆ず。何ぞ期せん、嶺南に仏有りて世に出でんとは。
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