兵法家伝書 / 新陰流外物進履橋城取・人數籠もの格好
城取人數籠ものかつかう專一之事 一 城取家々の流多しといへども、謙信、信玄兩家の流を先用候。此外諸家より出候軍書餘多有之といへども、城取も兩家より傳候城取出陣立合戰等も大概は軍書にて敎へ、城取は土形にておしへ申候傳受は除けよの常の儀は軍書口傳にて大形相澄申候。就中近代は信玄流の城取、丸の恰好、馬出の橫矢屛などの儀を專用候。自國の居城陣城野陣抔の取樣等多き中にも、自國の居城取立大事に候。其心得は居城は身代にたくらべ相應よりもせばく、三つの物一つ除、二つより少内〻可然。是は戰國の時に成り、又は大軍を引請度々野軍の勝負も有之て止む事を得ず籠城の時、大抵の人積り一間に一人あて總構を除き内くるわに成候ては、一間五人のつもり定たる儀に候。乍去是は大抵のつもりにて候へば、晝夜守り候儀は軍勢勞れ用に立がたく候ゆへ、三日に一度づゝ晝夜持口の役所を守るゆへ也。殘二人はうき武者にして是を置かざれ共如此に候ては大き成城には人數の積十部の一にもたらぬ程の不足に候故、定りのごとくは不叶物なり。然ども籠城に成候ては城の内せばきにしくはなし。立すくり居すくり等も致よく、紛者の穿鑿も成り安きものなり。此外味方に逆心或はかへり忠の者も便なくせばきには德多く、廣きにはしつ(失)多キもの也。とかく大將の居城にて敵を引請候時の致樣兼て心得有べき儀肝要の儀不及沙汰候。
新字:城取人数籠ものかつかう専一之事 一 城取家々の流多しといへども、謙信、信玄両家の流を先用候。此外諸家より出候軍書余多有之といへども、城取も両家より伝候城取出陣立合戦等も大概は軍書にて教へ、城取は土形にておしへ申候伝受は除けよの常の儀は軍書口伝にて大形相澄申候。就中近代は信玄流の城取、丸の恰好、馬出の横矢屛などの儀を専用候。自国の居城陣城野陣抔の取様等多き中にも、自国の居城取立大事に候。其心得は居城は身代にたくらべ相応よりもせばく、三つの物一つ除、二つより少内〻可然。是は戦国の時に成り、又は大軍を引請度々野軍の勝負も有之て止む事を得ず籠城の時、大抵の人積り一間に一人あて総構を除き内くるわに成候ては、一間五人のつもり定たる儀に候。乍去是は大抵のつもりにて候へば、昼夜守り候儀は軍勢労れ用に立がたく候ゆへ、三日に一度づゝ昼夜持口の役所を守るゆへ也。残二人はうき武者にして是を置かざれ共如此に候ては大き成城には人数の積十部の一にもたらぬ程の不足に候故、定りのごとくは不叶物なり。然ども籠城に成候ては城の内せばきにしくはなし。立すくり居すくり等も致よく、紛者の穿鑿も成り安きものなり。此外味方に逆心或はかへり忠の者も便なくせばきには徳多く、広きにはしつ(失)多キもの也。とかく大将の居城にて敵を引請候時の致様兼て心得有べき儀肝要の儀不及沙汰候。
書き下し
城取人數籠ものかつかう專一之事 一 城取家々の流多しといへども、謙信、信玄兩家の流を先用候。此外諸家より出候軍書餘多有之といへども、城取も兩家より傳候城取出陣立合戰等も大概は軍書にて敎へ、城取は土形にておしへ申候傳受は除けよの常の儀は軍書口傳にて大形相澄申候。就中近代は信玄流の城取、丸の恰好、馬出の橫矢屛などの儀を專用候。自國の居城陣城野陣抔の取樣等多き中にも、自國の居城取立大事に候。其心得は居城は身代にたくらべ相應よりもせばく、三つの物一つ除、二つより少内〻可然。是は戰國の時に成り、又は大軍を引請度々野軍の勝負も有之て止む事を得ず籠城の時、大抵の人積り一間に一人あて總構を除き内くるわに成候ては、一間五人のつもり定たる儀に候。乍去是は大抵のつもりにて候へば、晝夜守り候儀は軍勢勞れ用に立がたく候ゆへ、三日に一度づゝ晝夜持口の役所を守るゆへ也。殘二人はうき武者にして是を置かざれ共如此に候ては大き成城には人數の積十部の一にもたらぬ程の不足に候故、定りのごとくは不叶物なり。然ども籠城に成候ては城の内せばきにしくはなし。立すくり居すくり等も致よく、紛者の穿鑿も成り安きものなり。此外味方に逆心或はかへり忠の者も便なくせばきには德多く、廣きにはしつ(失)多キもの也。とかく大將の居城にて敵を引請候時の致樣兼て心得有べき儀肝要の儀不及沙汰候。
現代語訳
城取り、人数籠めの格好が専一であることです。一、城取りは家々の流が多いといっても、まず謙信・信玄両家の流を用います。このほか諸家から出た軍書は数多くありますが、城取りも両家から伝わり、出陣の立て方や合戦などは大概軍書で教え、城取りは土形で教えます。伝受は別として、世の常のことは軍書と口伝でおおかた済みます。とりわけ近代は信玄流の城取り、丸の恰好、馬出の横矢屏などを専ら用います。自国の居城・陣城・野陣などの取りようは多い中でも、自国の居城の取り立てが大事です。その心得は、居城は身代に比べて相応よりも狭く、三つの物を一つ除き、二つより少なめにするのがよいです。これは戦国の時になり、また大軍を引き受けて度々野戦の勝負もあり、止むを得ず籠城する時、大抵の人積もりでは、一間に一人ずつ総構えを除き、内曲輪になっては一間に五人の積もりと定まったことです。ただし、これは大抵の積もりですから、昼夜守ることは軍勢が疲れて役に立ちがたく、三日に一度ずつ昼夜持ち口の役所を守るためです。残り二人は浮き武者にして、これを置かなくても、このようでは大きな城では人数の積もりが十分の一にも足りないほどの不足ですから、定めのとおりには叶わないものです。しかし籠城となっては、城の内は狭いに越したことはありません。立てすくり、居すくりなども致しやすく、紛れ者の詮索もしやすいものです。このほか、味方に逆心の者、あるいは返り忠の者があっても、便の少ない狭い所には得が多く、広い所には失が多いものです。とにかく大将の居城で敵を引き受ける時の致しようは、かねて心得ておくべき肝要なことで、言うに及びません。
解説
この章句が説くこと
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『政談』諸役人に器量を選ふ事当時の治めは余りに人の押へ扣へ特の外に過きたり、唯々子供の守をする如く下たる人をあてかひて悪事をさせぬやうなし、ことの方をは一々に差図をして何事も上へ伺ひて勤むる故、智恵を出たすことは入らぬなり、唯々子供を使ふ如く下を使ふこと是上たる人の智恵にて済むことを覚ゆる、斯の如き世界なる故人々己れか才智を出さす、左れは才智ある人も才智をは出たさす、才智なき人は才智の付くへきやうなし、人の撰みは只立廻り利口にて、上の気に逆からぬやうに物云ひよく、何事も念の入て上へ伺ふ人を何役をも仕落なく勤むへき人々と思ふ、斯の如くなれは下たる人は何事も上へもたれ居て、身を踏み込むことは曽て之なき筈のことなり、
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説苑・雜言孔子曰く、「船は水に非ざれば行く可からず、水船中に入れば、則ち其れ没す。故に曰く、君子は厳ならざる可からざるなり、小人は閉ざさざる可からざるなり」と。
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『墨子』備城門老小の事とせざる者をして城上に守らしむ。術に當たらざる者なり。城、持ちて出づるには必ず眀填を為り、吏民をして皆な之を智知せしむ。一人より百人以上に従うも、持ちて出でて填章を操らざれば、人に従うも亦た故人に非ざれば、乃ち亦た稹章あるなり。千人の将以上、之を止め、行くを得しむる勿かれ。行きて吏卒、之に従わば、皆な斬り、具に以て上に聞す。此れ守城の重禁なり。夫れ姦の生ずる所、審らかにせざる可からざるなり。
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史記 孝景本紀後九月、更めて(弋)[易]陽を以て陽陵と為す。復た津関を置き、伝を用ゐて出入せしむ。冬、趙国を以て邯鄲郡と為す。五年三月、陽陵・渭橋を作る。五月、募りて陽陵に徙し、銭二十万を予ふ。江都に大暴風西方より来り、城を壊すこと十二丈。丁卯、長公主の子蟜を封じて隆慮侯と為す。広川王を徙して趙王と為す。六年春、中尉(趙)綰を封じて建陵侯と為し、江都の丞相嘉を建平侯と為し、隴西の太守渾邪を平曲侯と為し、趙の丞相嘉を江陵侯と為し、故の将軍布を鄃侯と為す。
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『新論』國體中故に朝廷衰ふと雖も、天下乱ると雖も、天下の勢猶未だ其の強為るを失はず。是を以て能く胡元の賊船を却け、朝鮮の国都を抜き、兵威の海外に震ふこと、猶尚ほ此の如きなり。豊臣氏天下の太だ強きを患へ、有土の君を挙げて尽く之を大阪に処き、或いは之を土木に役し、或いは之を戦伐に用ゐ、之をして一日も強を其の国に養ふを得ざらしむ。東照宮の興るや、其の務めも亦本を強くして末を弱くするに在り。武士をして各々都城に聚処せしめ、之をして一日も強を其の邑に養ふを得ざらしめ、庶民をして耳に金鼓を聞かず目に干戈を見ざらしむ。是に於てか兵寡く民愚にして、天下始めて弱く、而して一時の人豪、息を屏めて命を聴く。英算偉略の独り天下を運らす所以の者、其の効速やかなりと謂ふべし。
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説苑・修文齊の景公射に登るに、晏子禮を脩めて待つ。公曰く、「選射の禮、寡人之を厭う。吾天下の勇士を得て、之と國を圖らんと欲す。」晏子對えて曰く、「君子禮無ければ、是れ庶人なり。庶人禮無ければ、是れ禽獸なり。夫れ臣勇多ければ則ち其の君を弒し、子力多ければ則ち其の長を弒す。然れども敢えてせざる者は、惟だ禮を之れ謂うなり。禮とは民を御する所以なり、轡とは馬を御する所以なり。禮無くして能く國家を治むる者は、嬰未だ之を聞かざるなり。」と。景公曰く、「善し。」と。乃ち射を飭め席を更めて以て上客と為し、終日禮を問う。
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