兵法家伝書 / 活人劔有も有、無も有老子經の注
老子經の注に常に有、常に無と云事あり、有も常にあり、無も常にあり、かくるゝときは、有卽無となる、あらわるゝ時は無卽有となる、たとへば水鳥の水にうかびたる時は有也、水に入たる時は無也、然ば有とおもふもかくれぬれば無也、又無とおもふも顯るれば有なり、左あれば有無はたゞかくれあらはるゝ也、其體は一ッなり、しかれば有も無も常なる者也、佛法には本無本有と云也、人の死するは有かくるゝ也、人の生るゝは無あらはるゝ也、其體常なる者也、太刀をにぎる手に有無と云事あり、祕傳なり是を種利劔と云也、手を伏せぬれば、有かくるゝ也、手を仰ば無又顯はるゝ也、如此云とも相傳せずば、是等言葉知りがたき事也、有の時は此有を見て、有をうつべし、無のときは此無を見て無を打べし、故に有も有、無も有と云也、有と云物卽無也、無と云物卽有也、有無非二、此種利劔の有無を見る事違はゞ百手をつくして遣ふとも、勝利あるべからず、百樣の兵法も此一段に極る所也
新字:老子経の注に常に有、常に無と云事あり、有も常にあり、無も常にあり、かくるゝときは、有即無となる、あらわるゝ時は無即有となる、たとへば水鳥の水にうかびたる時は有也、水に入たる時は無也、然ば有とおもふもかくれぬれば無也、又無とおもふも顕るれば有なり、左あれば有無はたゞかくれあらはるゝ也、其体は一ッなり、しかれば有も無も常なる者也、仏法には本無本有と云也、人の死するは有かくるゝ也、人の生るゝは無あらはるゝ也、其体常なる者也、太刀をにぎる手に有無と云事あり、秘伝なり是を種利剣と云也、手を伏せぬれば、有かくるゝ也、手を仰ば無又顕はるゝ也、如此云とも相伝せずば、是等言葉知りがたき事也、有の時は此有を見て、有をうつべし、無のときは此無を見て無を打べし、故に有も有、無も有と云也、有と云物即無也、無と云物即有也、有無非二、此種利剣の有無を見る事違はゞ百手をつくして遣ふとも、勝利あるべからず、百様の兵法も此一段に極る所也
書き下し
老子經の注に常に有、常に無と云事あり、有も常にあり、無も常にあり、かくるゝときは、有卽無となる、あらわるゝ時は無卽有となる、たとへば水鳥の水にうかびたる時は有也、水に入たる時は無也、然ば有とおもふもかくれぬれば無也、又無とおもふも顯るれば有なり、左あれば有無はたゞかくれあらはるゝ也、其體は一ッなり、しかれば有も無も常なる者也、佛法には本無本有と云也、人の死するは有かくるゝ也、人の生るゝは無あらはるゝ也、其體常なる者也、太刀をにぎる手に有無と云事あり、祕傳なり是を種利劔と云也、手を伏せぬれば、有かくるゝ也、手を仰ば無又顯はるゝ也、如此云とも相傳せずば、是等言葉知りがたき事也、有の時は此有を見て、有をうつべし、無のときは此無を見て無を打べし、故に有も有、無も有と云也、有と云物卽無也、無と云物卽有也、有無非二、此種利劔の有無を見る事違はゞ百手をつくして遣ふとも、勝利あるべからず、百樣の兵法も此一段に極る所也
現代語訳
老子経の注に「常に有、常に無」ということがある。有も常にあり、無も常にある。隠れるときは、有が即ち無となる。現れるときは、無が即ち有となる。たとえば水鳥が水に浮かんでいるときは有で、水に潜ったときは無である。そうであれば、有と思うものも隠れれば無であり、無と思うものも現れれば有である。そうすると有無はただ隠れ現れるだけで、その体は一つである。したがって有も無も常なるものである。仏法では「本無本有」と言う。人が死ぬのは有が隠れるのであり、人が生まれるのは無が現れるのである。その体は常なるものである。太刀を握る手に有無ということがある。秘伝であり、これを種利劔という。手を伏せれば有が隠れ、手を仰向ければ無がまた現れる。このように言っても、相伝を受けなければ、これらの言葉は理解しにくい。有のときはこの有を見て有を打つべきである。無のときはこの無を見て無を打つべきである。ゆえに「有も有、無も有」と言う。有というものが即ち無であり、無というものが即ち有である。有無は二つに非ず。この種利劔の有無を見誤れば、百手を尽くして使っても勝つ利はない。百様の兵法もこの一段に極まるところである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『兵法家伝書』活人劔「有無拍子」一 有無拍子 附リ有も有、無も有と云事 右是は手字種利劔に付て、有と無と云習あり、あらわるゝ時は有也、隱るゝ時は無也、此かくれあらはるゝ有無卽手字種利劔也、太刀をにぎる手にあり、佛法に有無の沙汰あり、是になぞらへていへり、凡夫は有を見て無を見ざるなり、手字種利劔には、有をも見無をも見る也、有もあり無もある也、有の時は有に付てうち、無の時は無に付てうち、又有をまたずして無をうち、無をまたずして有をうつ程に有も有、無も無と云也
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『列子』天瑞篇故に生ずる者有り、生を生ずる者有り。形ある者有り、形を形づくる者有り。聲ある者有り、聲を聲たらしむる者有り。色ある者有り、色を色たらしむる者有り。味ある者有り、味を味たらしむる者有り。生の生ずる所の者は死す、而れども生を生ずる者は未だ嘗て終わらず。形の形づくる所の者は實つ、而れども形を形づくる者は未だ嘗て有らず。聲の聲たる所の者は聞こゆ、而れども聲を聲たらしむる者は未だ嘗て發せず。色の色たる所の者は彰わる、而れども色を色たらしむる者は未だ嘗て顯れず。味の味たる所の者は嘗めらる、而れども味を味たらしむる者は未だ嘗て呈れず。皆な無爲の職なり。能く陰たり能く陽たり、能く柔たり能く剛たり、能く短かり能く長し、能く員かに能く方に、能く生き能く死し、能く暑く能く涼しく、能く浮き能く沈み、能く宮たり能く商たり、能く出で能く沒し、能く玄く能く黄に、能く甘く能く苦く、能く羶く能く香し。知無きなり、能無きなり、而も知らざる無きなり、而も能わざる無きなり。
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言志四録・言志晩録 第二百八十八条 無は有より生ず無は、無より生ぜずして、有より生ず。死は、死より死せずして、生より死す。
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『列子』天瑞篇其の言に曰く、生ずる有り生ぜざる有り、化する有り化せざる有り。生ぜざる者は能く生を生じ、化せざる者は能く化を化す。生ずる者は生ぜざる能わず、化する者は化せざる能わず。故に常に生じ常に化す。常に生じ常に化する者は、時として生ぜざる無く、時として化せざる無し。陰陽のみ、四時のみ。生ぜざる者は疑獨、化せざる者は往復す。往復すれば、其の際は終うべからず。疑獨なれば、其の道は窮むべからず。黄帝書に曰く、谷神は死せず、是を玄牝と謂う。玄牝の門、是を天地の根と謂う。綿綿として存するが若く、之を用いて勤きず、と。故に物を生ずる者は生ぜず、物を化する者は化せず。自ら生じ自ら化し、自ら形り自ら色どり、自ら智あり自ら力あり、自ら消え自ら息う。之を生化形色智力消息せしむる者と謂うは、非なり。
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『童子問』卷下問ふ、老子曰く、有は無より生ずと。宋儒以為へらく、無中に有を含むと。異同如何。曰く、両説固より当に分別有るべし。然れども言有無に及べば、則ち争ふ所も亦多からず。老子は虚無を以て本と為し、以謂へらく礼儀三百・威儀三千は、皆聖人意を以て之を創ると。故に礼を以て偽と為し、人を矯むるの具と為す。宋儒以為へらく、至無の中に自ら三百三千の理有り、特聖人之が為に節文して、以て人に教ふと。是れ其の分別有る所以なり。然れども聖人の礼を制するや、諸を時世に考へ、諸を人事に揆り、或は時俗の用ふる所に循つて、之が節文を為す。何ぞ必ずしも至無の中に此の理有ることを察して、之を制せんや。畢竟飾詞のみ。晦翁袁樞に答ふる詩に云ふ、若し無中に有象を含むことを識らば、君に許す親しく包犠を見来たることをと。即ち芥子に須弥を納るるの説なり。易に曰く、大いなるかな乾元、万物資りて始む、乃ち天を統ぶ。至れるかな坤元、万物資りて生ず、乃ち順ひて天を承くと。是れ天道の極至、万有の本原にして、猶人の元陽有るがごとし。所謂太極と云ふ者も、亦便ち此の一元気を指して言ふ。則ち之を無物と謂ふべからず。亦此の上面に向つて、別に所謂無なる者を求むべからざるなり。諸子区区として、有無の二字を弁ずる者は、皆大易の奥旨を知らざるなり。大抵有は無より生ずるの論は、本俗見より出づ。世俗の字を識らざるの人と雖も、少しく智慧有る者は、皆能く有は無より生ずと道ふ。老子は特に其の妙に造るのみ。
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『兵法家伝書』殺人刀「陰陽内外の心持」陰陽たがひにかわる心持を思惟すべし、動は陽也、靜なるは陰也、陰と陽とは内外にかわりて、内に陽うごけば、外は陰で靜也、内陰なればうごいて外にあらはる、如是兵法にも内心に氣をはたらかし、うごかし、無油斷して外は又ふためかず、靜にする、是陽內に動き陰外に靜なる天理にかなふ也、又外きびしく懸なれば內心を外にとられぬ樣に、內を靜にして外懸なれば外みだれざる也、內外ともに動けばみだるゝ也、懸待動靜內外をたがひにすべし、水鳥の水にうかびて、上はしづかなれども、そこには水かきをつかふごとくに、內心に油斷なくして、此稽古つもりぬれば、內心外ともに打とけて、內外一ッに少もさわりなし、此に至る是至々極々也
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