兵法家伝書 / 殺人刀陰陽内外の心持
陰陽たがひにかわる心持を思惟すべし、動は陽也、靜なるは陰也、陰と陽とは内外にかわりて、内に陽うごけば、外は陰で靜也、内陰なればうごいて外にあらはる、如是兵法にも内心に氣をはたらかし、うごかし、無油斷して外は又ふためかず、靜にする、是陽內に動き陰外に靜なる天理にかなふ也、又外きびしく懸なれば內心を外にとられぬ樣に、內を靜にして外懸なれば外みだれざる也、內外ともに動けばみだるゝ也、懸待動靜內外をたがひにすべし、水鳥の水にうかびて、上はしづかなれども、そこには水かきをつかふごとくに、內心に油斷なくして、此稽古つもりぬれば、內心外ともに打とけて、內外一ッに少もさわりなし、此に至る是至々極々也
新字:陰陽たがひにかわる心持を思惟すべし、動は陽也、静なるは陰也、陰と陽とは内外にかわりて、内に陽うごけば、外は陰で静也、内陰なればうごいて外にあらはる、如是兵法にも内心に気をはたらかし、うごかし、無油断して外は又ふためかず、静にする、是陽内に動き陰外に静なる天理にかなふ也、又外きびしく懸なれば内心を外にとられぬ様に、内を静にして外懸なれば外みだれざる也、内外ともに動けばみだるゝ也、懸待動静内外をたがひにすべし、水鳥の水にうかびて、上はしづかなれども、そこには水かきをつかふごとくに、内心に油断なくして、此稽古つもりぬれば、内心外ともに打とけて、内外一ッに少もさわりなし、此に至る是至々極々也
書き下し
陰陽たがひにかわる心持を思惟すべし、動は陽也、靜なるは陰也、陰と陽とは内外にかわりて、内に陽うごけば、外は陰で靜也、内陰なればうごいて外にあらはる、如是兵法にも内心に氣をはたらかし、うごかし、無油斷して外は又ふためかず、靜にする、是陽內に動き陰外に靜なる天理にかなふ也、又外きびしく懸なれば內心を外にとられぬ樣に、內を靜にして外懸なれば外みだれざる也、內外ともに動けばみだるゝ也、懸待動靜內外をたがひにすべし、水鳥の水にうかびて、上はしづかなれども、そこには水かきをつかふごとくに、內心に油斷なくして、此稽古つもりぬれば、內心外ともに打とけて、內外一ッに少もさわりなし、此に至る是至々極々也
現代語訳
陰陽が互いに入れ替わる心持ちを思い巡らすべきです。動は陽であり、静は陰です。陰と陽は内外で入れ替わり、内で陽が動けば、外は陰で静かです。内が陰であれば、動いて外に現れます。このように兵法でも、内心に気を働かせ動かし、油断なくして、外はまた慌てず静かにします。これは陽が内に動き陰が外に静かな、天理にかなうことです。また、外が厳しく懸であれば、内心を外に取られないように、内を静かにします。外が懸であれば、外は乱れないのです。内外ともに動けば乱れます。懸待、動静、内外を互い違いにすべきです。水鳥が水に浮かんで、上は静かでも、底では水かきを使うように、内心に油断なくして、この稽古が積もれば、内心も外も打ち解けて、内外が一つになり、少しの障りもありません。ここに至るのが至々極々です。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『呻吟語』内篇・問學・外面に工夫を做す古の學者は心上に工夫を做す。故に外面に發する者は盛德の符と為る。今の學者は外面に工夫を做す。故に之を心に反せば則ち實德の病と為る。
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『正法眼蔵随聞記』巻一夜話に云く、今ま世出世間の人、多分は善事をなしては、かまへて人に知られんと思ひ、悪事を作して人に知られじと思ふ、是に依て内外不相応のこと出で来たる、あひかまへて内外相応じ、錯まりを悔ゐ、実徳をかくして、外相をかざらず好事をば他人にゆづり、悪事をば己れにむかふる志気あるべきなり、問て云く実徳を蔵し外相を飾らざらんこと、寔とに然るべし、但し仏菩薩は大悲利生を以て本とす、無智の道俗等外相の不善を見て是を謗り難せば、謗僧の罪を感ぜん、実徳を知らずとも、外相を見て貴とび供養せば、一分の福分たるべし、是らの斟酌いかなるべきぞ、
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『呻吟語』内篇・修身・內外の分に明らかなり凡そ我に在る者は都て是れ分內底なり、天に在り人に在る者は都て是れ分外底なり。學者は內外の分に明らかなるを要す。則ち內に在りて一分を缺けば便ち是れ人と成らざる處、外に在りて一分を得れば便ち是れ該に足るを知るべき處なり。
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『正法眼蔵随聞記』巻一答て云く、外相を飾らずとて、即ち放逸ならば亦是れ道理に差ふ、実徳を蔵すと云ふて、在家等の前にて悪行を現せば亦た是れ破戒の甚だしきなり、只希有の道心者、道者の由を人に知られんと思ひ、身にある失を人に知られじと思へども、諸天善神及び三宝の冥に知見する処なり、夫をば愧ずして、世人に貴とびられんと思ふ意ろを誠むるなり、只時にのぞみ事に触て、興法の為め利生の為に、諸事を斟酌すべきなり、擬して後に云ひ、思て後に行して、卒暴なること莫れとなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二亦云く、世俗の礼にも人の見ざる処、あるひは暗室の中なれども、衣服等をきかゆる時も、亦坐臥する時にも、放逸に隠処なんどをも蔵くさす無礼なるをば、天に慚ぢず鬼に慚ぢずとてそしるなり、只た人の見る時と同じく、かくすべき処をもかくし、はづべきことをもはづるなり、仏法の中も亦戒律かくのごとし、然あれば道者は内外を論ぜす、明暗を択はず、仏制を心に存して、人の見ず知らざればとて、悪事を行すべからざるなり、
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『童子問』卷上問ふ、学問は果たして性の内に在りや、性の外に在りやと。曰く、内外一致す。内は以て外を資け、外は以て内を養ふ。相無かるべからず。譬へば猶ほ人の一体のごとし。心思知慮は内なり、視聴動作は外なり。専ら心思知慮を貴びて、尽く視聴動作を廃するは、可ならんや。且つ生養の具の若きは、飲食薬餌より、以て宮室衣服、平生の合用、凡百の器具に至るまで、皆之を外に資らざること靡し。豈に独り学問に至りて、之を疑はんや。樹は土に非ざれば則ち生ぜず、魚は水に非ざれば則ち活きず。然れども樹と魚とに由りて之を見れば、則ち土と水とは皆外なり。然れども須臾も離るることを得ざるなり。人の学問、生養の具、何物か之を外に資らざらん。設若し其の外なるを以て之を棄てば、猶ほ樹の土を離れ、魚の水を去るがごとく、一日も生くることを得ず。其の不可なること必せり。人の五倫に於ける、父子の親、兄弟の睦と雖も、既に其の体を異にす。況んや君臣夫婦朋友は皆義を以て合ふ。豈に之を外と謂ひて可ならんや。凡そ内外の二字、古人の称する所と、後世の謂ふ所と、其の義適に別なり。所謂内とは之を親しむの辞、外とは之を疎んずるの辞なり。大学に外本内末と曰ひ、荘周に内聖外王と曰ふが若き、是れなり。性を以て内と為して、性に非ざる者を以て外と為して、之を棄つるに非ざるなり。告子の外義も、亦た義を以て外と為して之を行ふを謂ふ。棄てて用ひざるの謂に非ず。聖賢初めより内外の弁無し。其の内外の分を立つるは、後儒の陋説なり。
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