列子 / 天瑞篇
故有生者、有生生者、有形者、有形形者、有聲者、有聲聲者、有色者、有色色者、有味者、有味味者。生之所生者死矣、而生生者未嘗終、形之所形者實矣、而形形者未嘗有、聲之所聲者聞矣、而聲聲者未嘗發、色之所色者彰矣、而色色者未嘗顯、味之所味者嘗矣、而味味者未嘗呈:皆無爲之職也。能陰能陽、能柔能剛、能短能長、能員能方、能生能死、能暑能涼、能浮能沈、能宮能商、能出能沒、能玄能黃、能甘能苦、能羶能香。無知也、無能也、而無不知也、而無不能也。」
新字:故有生者、有生生者、有形者、有形形者、有声者、有声声者、有色者、有色色者、有味者、有味味者。生之所生者死矣、而生生者未嘗終、形之所形者実矣、而形形者未嘗有、声之所声者聞矣、而声声者未嘗発、色之所色者彰矣、而色色者未嘗顕、味之所味者嘗矣、而味味者未嘗呈:皆無為之職也。能陰能陽、能柔能剛、能短能長、能員能方、能生能死、能暑能涼、能浮能沈、能宮能商、能出能没、能玄能黄、能甘能苦、能羶能香。無知也、無能也、而無不知也、而無不能也。」
書き下し
故に生ずる者有り、生を生ずる者有り。形ある者有り、形を形づくる者有り。聲ある者有り、聲を聲たらしむる者有り。色ある者有り、色を色たらしむる者有り。味ある者有り、味を味たらしむる者有り。生の生ずる所の者は死す、而れども生を生ずる者は未だ嘗て終わらず。形の形づくる所の者は實つ、而れども形を形づくる者は未だ嘗て有らず。聲の聲たる所の者は聞こゆ、而れども聲を聲たらしむる者は未だ嘗て發せず。色の色たる所の者は彰わる、而れども色を色たらしむる者は未だ嘗て顯れず。味の味たる所の者は嘗めらる、而れども味を味たらしむる者は未だ嘗て呈れず。皆な無爲の職なり。能く陰たり能く陽たり、能く柔たり能く剛たり、能く短かり能く長し、能く員かに能く方に、能く生き能く死し、能く暑く能く涼しく、能く浮き能く沈み、能く宮たり能く商たり、能く出で能く沒し、能く玄く能く黄に、能く甘く能く苦く、能く羶く能く香し。知無きなり、能無きなり、而も知らざる無きなり、而も能わざる無きなり。
現代語訳
だから、生まれるものがあり、生まれるものを生ませるものがある。形あるものがあり、形あるものを形づくるものがある。声があり、声を声たらしめるものがある。色があり、色を色たらしめるものがある。味があり、味を味たらしめるものがある。生まれたものは死ぬが、生ませるものは終わったためしがない。形づくられたものは実体をもつが、形づくるものは姿を現したためしがない。声は聞こえるが、声を成り立たせるものは音を発したためしがない。色は目に見えるが、色を成り立たせるものは現れたためしがない。味は舌に感じるが、味を成り立たせるものは姿を見せたためしがない。すべて無為の働きである。それは陰にもなれ陽にもなれ、柔らかくも硬くもなれ、短くも長くもなれ、丸くも四角くもなれ、生きも死にもし、暑くも涼しくもなれ、浮きも沈みもし、宮の音にも商の音にもなれ、現れも隠れもし、黒くも黄色くもなれ、甘くも苦くもなれ、生臭くも香ばしくもなれる。知恵はなく、能力もない。それでいて知らないことがなく、できないことがない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『列子』天瑞篇其の言に曰く、生ずる有り生ぜざる有り、化する有り化せざる有り。生ぜざる者は能く生を生じ、化せざる者は能く化を化す。生ずる者は生ぜざる能わず、化する者は化せざる能わず。故に常に生じ常に化す。常に生じ常に化する者は、時として生ぜざる無く、時として化せざる無し。陰陽のみ、四時のみ。生ぜざる者は疑獨、化せざる者は往復す。往復すれば、其の際は終うべからず。疑獨なれば、其の道は窮むべからず。黄帝書に曰く、谷神は死せず、是を玄牝と謂う。玄牝の門、是を天地の根と謂う。綿綿として存するが若く、之を用いて勤きず、と。故に物を生ずる者は生ぜず、物を化する者は化せず。自ら生じ自ら化し、自ら形り自ら色どり、自ら智あり自ら力あり、自ら消え自ら息う。之を生化形色智力消息せしむる者と謂うは、非なり。
-
『列子』天瑞篇黄帝書に曰く、形動きて形を生ぜずして影を生じ、聲動きて聲を生ぜずして響を生じ、無動きて無を生ぜずして有を生ず、と。形は必ず終わる者なり。天地は終わるか。我と偕に終わらん。終わり進むか。知らざるなり。道の終わるは本と始め無きに、進むは本と久しからざるに。生有れば則ち不生に復り、形有れば則ち無形に復る。不生なる者は、本と不生なる者に非ざるなり。無形なる者は、本と無形なる者に非ざるなり。生とは、理の必ず終わる者なり。終わる者の終わらざるを得ざるは、亦た生ずる者の生ぜざるを得ざるが如し。而るに其の生を恆にし、其の終わりを畫せんと欲するは、數に惑うなり。
-
『列子』力命篇生は之を貴びて能く存する所に非ず。身は之を愛して能く厚くする所に非ず。生も亦た之を賤しみて能く夭くする所に非ず。身も亦た之を輕んじて能く薄くする所に非ず。故に之を貴びて或いは生きず、之を賤しみて或いは死せず、之を愛して或いは厚からず、之を輕んじて或いは薄からず。此れ反に似たり、反に非ざるなり。此れ自ら生き自ら死し、自ら厚く自ら薄きなり。或いは之を貴びて生き、或いは之を賤しみて死し、或いは之を愛して厚く、或いは之を輕んじて薄し。此れ順に似たり、順に非ざるなり。此れも亦た自ら生き自ら死し、自ら厚く自ら薄きなり。鬻熊文王に語げて曰く、自ら長きは增す所に非ず、自ら短きは損ずる所に非ず。算の亡き所を若何せん、と。老聃關尹に語げて曰く、天の惡む所、孰か其の故を知らん、と。天意を迎え、利害を揣るは、其の已むに如かざるを言うなり。
-
『列子』天瑞篇子列子曰く、天地に全功無く、聖人に全能無く、萬物に全用無し。故に天は生覆を職とし、地は形載を職とし、聖は教化を職とし、物は宜しき所を職とす。然らば則ち天に短なる所有り、地に長なる所有り、聖に否なる所有り、物に通ずる所有り。何となれば則ち、生覆する者は形載する能わず、形載する者は教化する能わず、教化する者は宜しき所に違う能わず、宜しき定まる者は其の位を出でず。故に天地の道は、陰に非ざれば則ち陽、聖人の教は、仁に非ざれば則ち義、萬物の宜は、柔に非ざれば則ち剛なり。此れ皆宜しき所に隨いて其の位を出づる能わざる者なり。
-
『列子』力命篇生くべくして生くるは、天の福なり。死すべくして死するは、天の福なり。生くべくして生きざるは、天の罰なり。死すべくして死せざるは、天の罰なり。生くべく、死すべくして、生を得死を得ること有り。生くべからず、死すべからずして、或いは死し或いは生くること有り。然り而して生生死死は、物に非ず我に非ず、皆な命なり。智の柰何ともする所無きなり。故に曰く、窈然として際無く、天道自ら會す。漠然として分かつ無く、天道自ら運る、と。天地も犯す能わず、聖智も干す能わず、鬼魅も欺く能わず。自然なる者は之を默し之を成し、之を平らげ之を寧んじ、之を將り之を迎う。
-
荘子・田子方孔子曰く、「何の謂いぞや」と。曰く、「心は焉(ここ)に困(くる)しみて知る能わず、口は焉に辟(へき)して言う能わず。嘗みに汝の為に其の将(ほぼ)を議せん。至陰は粛粛(しゅくしゅく)たり、至陽は赫赫(かくかく)たり。粛粛は天より出で、赫赫は地より発す。両者交通して和を成して物焉に生ず。或いは之が紀(き)を為すも、而も其の形を見る莫し。消息満虚(しょうそくまんきょ)し、一たびは晦(くら)く一たびは明らかなり。日に改まり月に化す。日に為す所有るも、而も其の功を見る莫し。生は萌(きざ)す所有り、死は帰する所有り。始終は相反して端(はし)無し。而も其の窮まる所を知る莫し。是に非ざれば、且つ孰(たれ)か之が宗を為さん」と。