兵法家伝書 / 殺人刀太刀つれ・三尺つもり六ヶ条
一 太刀つれの事 一 敵身方兩三寸之事 一 身之早速ぬすみこむ事 一 上段にから見の目付之事 一 車の太刀左右ともにわけめ目付之事 一 三尺つもりの事 右六ヶ條は師匠と立相て習ひ口傳せずばなるまじき條々也、筆にはことゞくにあらわさず如此條々を以て、色々に序を切り懸て表裏をすれども、おどろかずして、敵先をこさずして、待に取かため居る時は、三尺をぬすみこみて、敵の身へ近よる時に、敵こらへかねて、懸に向ふとき、敵にせんをさせ、うたれて敵をうつなり、曉とかく、敵うたねば、かつ事がならぬ也、敵が我をうつても、我にはあたらぬつもりを、よく覺へねば、卒爾に又うたるゝ事もならぬ事也、其段を能く稽古しすまして、おそろしげもなく、敵の身へ近づきて、うたせて却て勝なり、先々の心持也
新字:一 太刀つれの事 一 敵身方両三寸之事 一 身之早速ぬすみこむ事 一 上段にから見の目付之事 一 車の太刀左右ともにわけめ目付之事 一 三尺つもりの事 右六ヶ条は師匠と立相て習ひ口伝せずばなるまじき条々也、筆にはことゞくにあらわさず如此条々を以て、色々に序を切り懸て表裏をすれども、おどろかずして、敵先をこさずして、待に取かため居る時は、三尺をぬすみこみて、敵の身へ近よる時に、敵こらへかねて、懸に向ふとき、敵にせんをさせ、うたれて敵をうつなり、暁とかく、敵うたねば、かつ事がならぬ也、敵が我をうつても、我にはあたらぬつもりを、よく覚へねば、卒爾に又うたるゝ事もならぬ事也、其段を能く稽古しすまして、おそろしげもなく、敵の身へ近づきて、うたせて却て勝なり、先々の心持也
書き下し
一 太刀つれの事 一 敵身方兩三寸之事 一 身之早速ぬすみこむ事 一 上段にから見の目付之事 一 車の太刀左右ともにわけめ目付之事 一 三尺つもりの事 右六ヶ條は師匠と立相て習ひ口傳せずばなるまじき條々也、筆にはことゞくにあらわさず如此條々を以て、色々に序を切り懸て表裏をすれども、おどろかずして、敵先をこさずして、待に取かため居る時は、三尺をぬすみこみて、敵の身へ近よる時に、敵こらへかねて、懸に向ふとき、敵にせんをさせ、うたれて敵をうつなり、曉とかく、敵うたねば、かつ事がならぬ也、敵が我をうつても、我にはあたらぬつもりを、よく覺へねば、卒爾に又うたるゝ事もならぬ事也、其段を能く稽古しすまして、おそろしげもなく、敵の身へ近づきて、うたせて却て勝なり、先々の心持也
現代語訳
太刀つれのこと。敵味方の両三寸のこと。身の早速、盗み込むこと。上段に絡み見の目付のこと。車の太刀、左右ともに分け目の目付のこと。三尺積りのこと。右の六箇条は、師匠と立ち合って習い、口伝しなければならない条々です。筆にはことごとく表しません。このような条々をもって、さまざまに序を切りかけ、表裏をするけれども、敵が驚かず、先を越さず、待に取り固めているときは、三尺を盗み込んで敵の身へ近寄ります。そのとき、敵がこらえかねて懸に向かうとき、敵に先をさせ、打たれて敵を打つのです。暁とかく(意味の取りにくい箇所です)、敵が打たなければ勝つことはできません。敵が我を打っても、我には当たらない見積もりをよく覚えなければ、軽率にまた打たれるということもできないのです。その段をよく稽古し澄ませて、恐ろしげもなく敵の身へ近づき、打たせて、かえって勝つのです。先々の心持ちです。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・應務・事を料るに疏にして身を謀るに拙なり事を料るに疏にして、身を謀るに拙なるは、明哲なる者の懼るる所なり。
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