配所残筆 / 配所殘筆34
夫は賤敷者之可存候事は賤者に御尋候と申事に御座候と申上候。此問答再三御座候て。少不入御意御挨拶に御座候へ共。私存寄申上候樣に被仰候故。少も顧ず申上候。定而無禮之樣に相見へ可申候。其後私申上候者。只今者方々寺方多御座候て。路次にも佛禮を出置候故。下々迄佛をば存候。日本之所々に孔子堂を取立申候はゞ。人々も又聖人之名を可奉存候事に御座候哉と申上候得者。尤之由に被仰候。御料理過候て頓而御立寄候所。私申上候者。乍恐申候事御座候。今度御老中樣に被爲成。乍慮外御仕合能奉存候。乍然古より由置候者。仕合能候得者又夫程失は御座候物に御座候由申傳候。乍憚被爲加御愼候樣に奉願候。就中御威光に付息樣方從世上御馳走可有御座候間。御勤第一に奉存候由申上候。是は伯州公御勤乍慮外無心元奉存候下心に申上候得共。其御心得者無御座候御挨拶に御座候而。其方心入不淺被思召候由被仰。御大慶被遊候由に御座候。其日二條 番歸衆野間金左衞門殿猪飼五郎兵衞殿抔御宅へ御出候而御歸を御待御座候由申來候處。御歸被成候。其以後者不懸御目候。右之段石谷市郎右衞門殿御存被成候。其後度々御自筆之御狀御音物被遊。石谷市郎衞門殿へも切々御傳言被遊。頓而御作事出來次第可被仰下候間參上可仕候。寺にて申上候品々今に御失念不被遊候由被仰下候。殊更御加增御拜領之時分も。御自筆之御懇書被下。別而御念頃に候。然ば御無禮仕候而不屆成儀と被仰候由。御風聞にて可有御座と。拙者奉存候而罷在候。以上。 十月十六日 山鹿甚五左衞門
新字:夫は賤敷者之可存候事は賤者に御尋候と申事に御座候と申上候。此問答再三御座候て。少不入御意御挨拶に御座候へ共。私存寄申上候様に被仰候故。少も顧ず申上候。定而無礼之様に相見へ可申候。其後私申上候者。只今者方々寺方多御座候て。路次にも仏礼を出置候故。下々迄仏をば存候。日本之所々に孔子堂を取立申候はゞ。人々も又聖人之名を可奉存候事に御座候哉と申上候得者。尤之由に被仰候。御料理過候て頓而御立寄候所。私申上候者。乍恐申候事御座候。今度御老中様に被為成。乍慮外御仕合能奉存候。乍然古より由置候者。仕合能候得者又夫程失は御座候物に御座候由申伝候。乍憚被為加御慎候様に奉願候。就中御威光に付息様方従世上御馳走可有御座候間。御勤第一に奉存候由申上候。是は伯州公御勤乍慮外無心元奉存候下心に申上候得共。其御心得者無御座候御挨拶に御座候而。其方心入不浅被思召候由被仰。御大慶被遊候由に御座候。其日二条 番帰衆野間金左衛門殿猪飼五郎兵衛殿抔御宅へ御出候而御帰を御待御座候由申来候処。御帰被成候。其以後者不懸御目候。右之段石谷市郎右衛門殿御存被成候。其後度々御自筆之御状御音物被遊。石谷市郎衛門殿へも切々御伝言被遊。頓而御作事出来次第可被仰下候間参上可仕候。寺にて申上候品々今に御失念不被遊候由被仰下候。殊更御加增御拝領之時分も。御自筆之御懇書被下。別而御念頃に候。然ば御無礼仕候而不届成儀と被仰候由。御風聞にて可有御座と。拙者奉存候而罷在候。以上。 十月十六日 山鹿甚五左衛門
書き下し
夫は賤敷者之可存候事は賤者に御尋候と申事に御座候と申上候。此問答再三御座候て。少不入御意御挨拶に御座候へ共。私存寄申上候樣に被仰候故。少も顧ず申上候。定而無禮之樣に相見へ可申候。其後私申上候者。只今者方々寺方多御座候て。路次にも佛禮を出置候故。下々迄佛をば存候。日本之所々に孔子堂を取立申候はゞ。人々も又聖人之名を可奉存候事に御座候哉と申上候得者。尤之由に被仰候。御料理過候て頓而御立寄候所。私申上候者。乍恐申候事御座候。今度御老中樣に被爲成。乍慮外御仕合能奉存候。乍然古より由置候者。仕合能候得者又夫程失は御座候物に御座候由申傳候。乍憚被爲加御愼候樣に奉願候。就中御威光に付息樣方從世上御馳走可有御座候間。御勤第一に奉存候由申上候。是は伯州公御勤乍慮外無心元奉存候下心に申上候得共。其御心得者無御座候御挨拶に御座候而。其方心入不淺被思召候由被仰。御大慶被遊候由に御座候。其日二條 番歸衆野間金左衞門殿猪飼五郎兵衞殿抔御宅へ御出候而御歸を御待御座候由申來候處。御歸被成候。其以後者不懸御目候。右之段石谷市郎右衞門殿御存被成候。其後度々御自筆之御狀御音物被遊。石谷市郎衞門殿へも切々御傳言被遊。頓而御作事出來次第可被仰下候間參上可仕候。寺にて申上候品々今に御失念不被遊候由被仰下候。殊更御加增御拜領之時分も。御自筆之御懇書被下。別而御念頃に候。然ば御無禮仕候而不屆成儀と被仰候由。御風聞にて可有御座と。拙者奉存候而罷在候。以上。 十月十六日 山鹿甚五左衞門
現代語訳
それは、賤しい者が知っていることは賤しい者にお尋ねになる、ということでございます、と申し上げました。この問答は再三ございまして、少しお気に召さない御挨拶でしたが、私の考えを申すようにと仰せになりましたので、少しも顧みず申し上げました。きっと無礼なように見えたことでしょう。そののち、私が申し上げたのは、ただいまは方々に寺が多くございまして、路次にも仏の礼を出し置いておりますので、下々に至るまで仏を存じております。日本の所々に孔子堂を取り立てましたら、人々もまた聖人の名を存じるようになりましょうか、と申し上げますと、もっともだと仰せになりました。御料理が済んで、まもなくお立ちになるところで、私が申し上げたのは、恐れながら申し上げたいことがございます。このたび御老中におなりになり、慮外ながら御仕合わせがよく存じます。しかし、古くから言い伝えられておりますのは、仕合わせがよければ、またそれほどの失うこともあるものだということでございます。恐れながら、お慎みを加えられますように願います。なかでも、御威光につきまして、お子様方に世上から御馳走がございましょうから、お勤めが第一と存じます、と申し上げました。これは、伯州公のお勤めが、慮外ながら心もとなく存じられる下心で申し上げたのですが、そのようなお心得はないとのご挨拶で、「その方の心入れは浅くなく思う」と仰せになり、たいそうお喜びになったとのことでございます。その日、二条番帰りの衆の野間金左衛門殿・猪飼五郎兵衛殿などが御宅へお出でになり、お帰りをお待ちだと申してきましたところ、お帰りになりました。そののちは、お目にかかっておりません。右のことは、石谷市郎右衛門殿がご存じです。その後、たびたびご自筆のお手紙やお贈り物をくださり、石谷市郎右衛門殿へも、ことあるごとにお言伝がございました。「まもなく普請ができ次第、お知らせするので、参上するように。寺で申し上げた事々を、今にお忘れではない」と仰せ下されました。ことに、ご加増を拝領された時分にも、ご自筆の懇切なお手紙をくださり、とりわけ念入りでございました。それなのに、御無礼をして不届きだと仰せになったとの、ご風聞があるのでしょうと、拙者は存じております。以上。 十月十六日 山鹿甚五左衛門
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』僖公十五年 韓原の戦い壬戌、韓原に戰ふ。晉の戎馬濘に還りて止まる。公慶鄭を號ぶ。慶鄭曰く、「諫に愎り卜に違ふ、固より敗を是れ求む、又何ぞ逃れん」と。遂に之を去る。梁由靡韓簡を御し、虢射右と為り、秦伯を輅へ、將に之を止めんとす。鄭公を救ふを以て之を誤らしめ、遂に秦伯を失ふ。秦晉侯を獲て以て歸る。晉の大夫首を反し舍を拔きて、之に從ふ。秦伯使ひして辭せしめて曰く、「二三子何ぞ其れ慼へるや。寡人の君に從ひて西するや、亦た晉の妖夢を是れ踐むのみ、豈に敢へて以て至らんや」と。晉の大夫三拜稽首して曰く、「君は后土を履みて皇天を戴く。皇天后土、實に君の言を聞く、群臣敢へて下風に在らん」と。穆姬晉侯の將に至らんとするを聞き、大子罃・弘と女簡・璧とを以て、臺に登りて薪を履む。免服衰絰を以て逆へしめ、且つ告げしめて曰く、「上天災を降し、我が兩君をして玉帛を以て相見えずして、戎を興すを以てせしむ。若し晉君朝に以て入らば、則ち婢子夕べに以て死せん。夕べに以て入らば、則ち朝に以て死せん。唯だ君之を裁け」と。乃ち諸を靈臺に舍らしむ。
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葉隠・聞書第一諫言(かんげん)の道に、我(われ)其の位(くらい)にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤(おあやまり)直(なお)る様にするが大忠(たいちゅう)なり。此の階(かい)の為に諸人(しょにん)と懇意(こんい)する所なり。我が為にすれば追従(ついしょう)なり。一方(いっぽう)は我等(われら)荷(にな)ひ申す心入(こころいれ)からなり。成程(なるほど)なるものなり。
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史記 宋微子世家微子開は、殷の帝乙の首子にして帝紂の庶兄なり。紂既に立ち、明らかならず、政に淫乱す。微子数々諫むるも、紂聴かず。祖伊周の西伯昌の徳を修め、黎国を滅ぼすを以て、禍の至らんことを懼れ、以て紂に告ぐるに及ぶ。紂曰く、「我が生は命天に在る有らずや。是れ何をか能く為さん」と。是に於て微子、紂の終に諫むべからざるを度り、之に死せんと欲し、及び去らんとするも、未だ自ら決すること能はず。乃ち太師・少師に問ひて曰く、「殷は治政有らず、四方を治めず。我が祖遂に上に陳ぶ。紂酒に沈湎し、婦人是れ用ひ、湯の徳を下に乱敗す。殷既に小大好んで草窃姦宄し、卿士師師度に非ず、皆罪辜有り、乃ち維れ獲ること无し。小民乃ち并び興り、相敵讎と為る。今殷其れ典喪へり。水を渉るに津涯无きが若し。殷遂に喪ひ、越に今に至る」と。曰く、「太師、少師、我其れ発して出で往かんか。吾が家喪に保たんか。今女故无くして予に告ぐ。顛躋(てんせい)せば、之を如何せん」と。太師若(かく)のごとく曰く、「王子、天篤く菑(わざはひ)を下して殷国を亡ぼす。乃ち畏るべきを畏れず、老長を用ひず。今殷の民乃ち神祇の祀を陋淫す。今誠に国を治むるを得ば、国治まりて身死すとも恨みず。死を為して、終に治むるを得ずんば、去るに如かず」と。遂に亡ぐ。箕子は、紂の親戚なり。紂始めて象箸を為る。箕子嘆じて曰く、「彼象箸を為らば、必ず玉桮を為らん。桮を為らば、則ち必ず遠方の珍怪の物を思ひて之を御せん。輿馬宮室の漸、此より始まり、振ふべからず」と。紂淫泆を為す。箕子諫むるも、聴かず。人或いは曰く、「以て去るべし」と。箕子曰く、「人臣為りて諫めて聴かれずして去るは、是れ君の悪を彰らかにして自ら民に説(よろこ)ばるるなり。吾為すに忍びざるなり」と。乃ち髪を被り詳狂して奴と為る。遂に隠れて琴を鼓きて以て自ら悲しむ。故に之を伝へて箕子操と曰ふ。王子比干は、亦た紂の親戚なり。
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史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
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史記 楽書上は朝廷より、下は人民に至るまで、以て歓喜を接し、殷勤を合するを得、此の和説に非ずんば通ぜず、解沢流れず、亦各々一世の化、時を度るの楽なり、何ぞ必ずしも華山の騄耳にして而る後に遠きを行かんや」と。二世之を然りとす。高祖、沛を過りて三侯の章を詩し、小児をして之を歌はしむ。高祖崩じ、沛をして四時に宗廟に歌舞するを得しむ。孝恵・孝文・孝景は増更する所無く、楽府に於いて常を習ひ旧を肄ふのみ。今上即位するに至り、十九章を作り、侍中李延年をして其の声を次序せしめ、拝して協律都尉と為す。一経に通ずるの士も独り其の辞を知る能はず、皆五経の家を集会し、相与に共に講習して之を読み、乃ち能く其の意を通知す、多く爾雅の文なり。漢家常に正月上辛を以て太一を甘泉に祠り、昏時を以て夜祠り、明に到りて終はる。常に流星の祠壇の上を経る有り。僮男僮女七十人をして俱に歌はしむ。春は青陽を歌ひ、夏は朱明を歌ひ、秋は西暤を歌ひ、冬は玄冥を歌ふ。世に多く有り、故に論ぜず。又嘗て神馬を渥洼の水中に得て、復た次して以て太一の歌と為す。歌曲に曰く、「太一貢ぎて天馬下る、赤汗に霑ひて沫赭を流す。騁せて容与として万里を跇ゆ、今安んぞ匹せん、龍を友と為す」と。後に大宛を伐ちて千里の馬を得、馬の名は蒲梢、次して作りて以て歌と為す。歌詩に曰く、「天馬来たる、西極よりす。万里を経て有徳に帰す。霊威を承けて外国を降し、流沙を渉りて四夷服す」と。中尉汲黯進みて曰く、「凡そ王者の楽を作るは、上は以て祖宗を承け、下は以て兆民を化す。今陛下馬を得て、詩して以て歌と為し、宗廟に協す、先帝百姓豈に能く其の音を知らんや」と。上黙然として説ばず。丞相公孫弘曰く、「黯は聖制を誹謗す、当に族すべし」と。凡そ音の起こるは、人心より生ずるなり。人心の動くは、物之をして然らしむるなり。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上又喩ヘテ云ハ。賢君明主ハ忠臣ヲ信任シ。諫言ヲ用ル如クシヤ。漢ノ高祖カ諫ニ従フコト流ノ如ク。唐ノ太宗ノ魏徴カ苦諫ノ言ヲ用ヒアリシ類。ソノ如ク。正法ノ因縁アル者ハ必ス不邪見戒ニ随順スルシヤ。此ニ反シテ宿福ナキ者ハ。智者モ愚者モ。学者モ不学者モ仏アルコトヲ信セヌ。法アルコトヲ信セヌ。聖賢アルコトヲ信セヌ。神祇有コトヲ信セヌ。善悪報応有コトヲ信セヌシヤ。
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