配所残筆 / 配所殘筆6
正保四年丁亥秋大猷院樣北條安房守殿へ城取之作法本圖被仰付之時分、拙者瘧り相煩候て罷在候處へ、安房守殿私宅へ御出候て、右之本圖御相談にて、陰陽之兩圖出來候、右本圖之書付并目錄迄、拙者と相談之上被書付候、其書付不殘拙者之所に御座候、其節久世和州公、安房守殿へ御出御座候て懸御目候、御覺可被成候、 拙者廿五歲之時、松平越中守殿拙者を御呼被成、學問兵學之御詮議御議論御座候、拙者申上候通御得心被成、別而御大慶被成、則被爲遂誓狀候て、拙者に兵學御相談被成候、右御誓狀之翌日、三輪權右衞門先達而被遣候御太刀馬代時服被下候、追而越中守殿爲御禮私宅へ御來臨被成下候、其以後者每度御懇意之詩文など折々御贈答被成候、拙者文章を書候を表具被仰付候て、拙者御招請之時分御座敷へ被懸候、誠冥加之至却而迷惑仕候段、度々御斷申上候、其段者淺野因州公能御存、常に被仰出候、越中守殿御事は、其頃六十に被爲成、御門葉と申、御譜代之御大名には珍敷御學問にて、兵法者尾畑殿印可迄御究、東海道一番之御大名、人皆崇敬仕候處、拙者御信仰不大方候間、御答問之義迄委しく書付置候、其段今以家中衆被存候、
新字:正保四年丁亥秋大猷院様北条安房守殿へ城取之作法本図被仰付之時分、拙者瘧り相煩候て罷在候処へ、安房守殿私宅へ御出候て、右之本図御相談にて、陰陽之両図出来候、右本図之書付并目録迄、拙者と相談之上被書付候、其書付不残拙者之所に御座候、其節久世和州公、安房守殿へ御出御座候て懸御目候、御覚可被成候、 拙者廿五歳之時、松平越中守殿拙者を御呼被成、学問兵学之御詮議御議論御座候、拙者申上候通御得心被成、別而御大慶被成、則被為遂誓状候て、拙者に兵学御相談被成候、右御誓状之翌日、三輪権右衛門先達而被遣候御太刀馬代時服被下候、追而越中守殿為御礼私宅へ御来臨被成下候、其以後者毎度御懇意之詩文など折々御贈答被成候、拙者文章を書候を表具被仰付候て、拙者御招請之時分御座敷へ被懸候、誠冥加之至却而迷惑仕候段、度々御断申上候、其段者浅野因州公能御存、常に被仰出候、越中守殿御事は、其頃六十に被為成、御門葉と申、御譜代之御大名には珍敷御学問にて、兵法者尾畑殿印可迄御究、東海道一番之御大名、人皆崇敬仕候処、拙者御信仰不大方候間、御答問之義迄委しく書付置候、其段今以家中衆被存候、
書き下し
正保四年丁亥秋大猷院樣北條安房守殿へ城取之作法本圖被仰付之時分、拙者瘧り相煩候て罷在候處へ、安房守殿私宅へ御出候て、右之本圖御相談にて、陰陽之兩圖出來候、右本圖之書付并目錄迄、拙者と相談之上被書付候、其書付不殘拙者之所に御座候、其節久世和州公、安房守殿へ御出御座候て懸御目候、御覺可被成候、 拙者廿五歲之時、松平越中守殿拙者を御呼被成、學問兵學之御詮議御議論御座候、拙者申上候通御得心被成、別而御大慶被成、則被爲遂誓狀候て、拙者に兵學御相談被成候、右御誓狀之翌日、三輪權右衞門先達而被遣候御太刀馬代時服被下候、追而越中守殿爲御禮私宅へ御來臨被成下候、其以後者每度御懇意之詩文など折々御贈答被成候、拙者文章を書候を表具被仰付候て、拙者御招請之時分御座敷へ被懸候、誠冥加之至却而迷惑仕候段、度々御斷申上候、其段者淺野因州公能御存、常に被仰出候、越中守殿御事は、其頃六十に被爲成、御門葉と申、御譜代之御大名には珍敷御學問にて、兵法者尾畑殿印可迄御究、東海道一番之御大名、人皆崇敬仕候處、拙者御信仰不大方候間、御答問之義迄委しく書付置候、其段今以家中衆被存候、
現代語訳
正保四年(丁亥)の秋、大猷院様が北条安房守殿に城取りの作法の本図をお命じになったとき、私は瘧(おこり)を患っておりましたところへ、安房守殿が私宅へお越しになり、その本図をご相談になって、陰陽の両図ができました。本図の書付と目録まで、私と相談のうえでお書きになりました。その書付は残らず私の所にあります。そのとき久世和州公が安房守殿のもとへお越しになり、お目にかかりました。ご記憶でしょう。私が二十五歳のとき、松平越中守殿が私をお呼びになり、学問や兵学についての詮議・議論がありました。私が申し上げたことにご納得になり、とくにお喜びになって、誓状を遂げられ、私に兵学をご相談になりました。誓状の翌日、三輪権右衛門を先に遣わしてくださった太刀・馬代・時服を下さり、のちに越中守殿は御礼として私宅へお越しくださいました。それ以降はいつもご懇意に、詩文などを折々贈答され、私が書いた文章を表具させて、私をお招きになるときに座敷にお掛けになりました。冥加に余ることでもあり、かえって迷惑なことだと、度々お断り申し上げました。そのことは浅野因州公がよくご存じで、いつも仰せられています。越中守殿はそのころ六十歳になられ、御門葉と申し、譜代の大名には珍しいほどの学問があり、兵法は尾畑殿の印可まで究め、東海道一番の大名で、人々が皆崇敬しておりましたが、そのお方の私への信頼は並大抵ではなかったので、ご答問のことまで詳しく書き付けておきました。そのことは今も家中の方々がご存じです。
解説
この章句が説くこと
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論語・憲問篇子曰く、『驥は其の力を称せず、その徳を称すなり。』
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尉繚子・兵教上民をして国門の限を背にし、死生の分を決せしめ、之に死して疑はざるを教ふる者は、以有るなり。守る者をして必ず固く、戦ふ者をして必ず闘ひ、奸謀作らず、姦民語らず、令行はれて変無く、兵行はれて猜無く、軽き者は霆の若く、敵に奮ふこと驚くが若くせしむ。功を挙げ徳を別つこと、明らかなること白黒の如く、
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『晏子春秋』外篇上・景公台成盆成適願合葬其母晏子諫而許公曰く、「吾之を聞く、五子は隅に満たず、一子は朝に満つべしと。乃の子に非ずや」と。盆成適是に於て事に臨みて敢えて哭せず、事を奉ずるに礼を以てし、畢りて、門を出で、然る後声を挙ぐ。
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史記 李将軍列伝此を用て、其の兵を将ゐて数々困辱せられ、其の猛獣を射るも亦傷つけらるる所と為ると云ふ。居ること頃之、石建卒す。是に於て上広を召して建に代はりて郎中令と為す。元朔六年、広復た後将軍と為り、大将軍の軍に従ひて定襄より出で、匈奴を撃つ。諸将多く首虜の率に中りて功を以て侯と為る者あり。而るに広の軍功無し。後二歳、広郎中令を以て四千騎を将ゐて右北平より出づ。博望侯張騫万騎を将ゐて広と倶にし、道を異にす。行くこと数百里可り、匈奴の左賢王四万騎を将ゐて広を囲む。広の軍士皆恐る。広乃ち其の子敢をして往きて之に馳せしむ。敢独り数十騎と馳せ、直ちに胡騎を貫き、其の左右に出でて還り、広に告げて曰く、「胡虜は与し易きのみ」と。軍士乃ち安んず。広圜陳を為して外に向かふ。胡急に之を撃ち、矢の下ること雨の如し。漢の兵死する者半ばを過ぎ、漢の矢且に尽きんとす。広乃ち士をして満を持して発する毋からしめ、而して広身自ら大黄を以て其の裨将を射、数人を殺す。胡虜益々解く。会々日暮れ、吏士皆人色無し。而るに広は意気自如として、益々軍を治む。軍中是より其の勇に服するなり。明日、復た力戦し、而して博望侯の軍も亦至る。匈奴の軍乃ち解きて去る。漢の軍罷れて、追ふ能はず。是の時広の軍幾ど没し、罷めて帰る。漢の法、博望侯留遅して期に後る、死に当たり、贖ひて庶人と為る。広の軍功は自如にして、賞無し。初め、広の従弟李蔡広と倶に孝文帝に事ふ。景帝の時、蔡功労を積みて二千石に至る。孝武帝の時、代の相に至る。元朔五年を以て軽車将軍と為り、大将軍に従ひて右賢王を撃ち、功有りて率に中り、封じて楽安侯と為す。元狩二年中、公孫弘に代はりて丞相と為る。蔡の人と為りは下の中に在り、名声は広の下に出づること甚だ遠し。然れども広は爵邑を得ず、官は九卿に過ぎず。而るに蔡は列侯と為り、位三公に至る。
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『呻吟語』内篇・修身・眾皆な之を悅ぶも、其の士爲る者之を笑ふ天下相忘るるを難しとせず、只だ一人の竊かに笑ふを怕る。夫れ舉世の道を聞かざるや久し。而して道を聞く者未だ必ずしも人無からず。苟しくも道を聞く者の知る所と為らば、一世之を非とすと雖も可なり。苟しくも道を聞く者の笑ふ所と為らば、天下之を是とすと雖も、終に純正の學に非ず。故に曰く、眾皆な之を悅ぶも、其の士爲る者之を笑ふと。識有るの君子は、必ず眾の悅ぶを以て一笑に博せざるなり。
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