群書治要 / 『群書治要』抱朴子・遠きを貴び近きを賤しむ
抱朴子曰:貴遠而賤近者、常人之用情也。信耳而疑目者、古今之所患也。是以秦王嘆息於韓非之書、而想其為人、漢武慷慨於相如之文、而恨不同世、及既得之、終不能拔、或納讒而誅之、或放之乎冘散、此蓋葉公之好僞形、見真龍而失色也。
新字:抱朴子曰:貴遠而賤近者、常人之用情也。信耳而疑目者、古今之所患也。是以秦王嘆息於韓非之書、而想其為人、漢武慷慨於相如之文、而恨不同世、及既得之、終不能抜、或納讒而誅之、或放之乎冘散、此蓋葉公之好偽形、見真竜而失色也。
書き下し
抱朴子曰く、遠きを貴びて近きを賤しむは、常人の情を用うるなり。耳を信じて目を疑うは、古今の患うる所なり。是を以て秦王は韓非の書を嘆息して、其の為人を想い、漢武は相如の文に慷慨して、同世ならざるを恨む。既に之を得るに及びて、終に抜く能わず、或いは讒を納れて之を誅し、或いは之を冘散に放つ。此れ蓋し葉公の偽形を好み、真龍を見て色を失うなり。
現代語訳
抱朴子は言いました。遠いものを貴んで近いものを賤しむのは、凡人の心の働きです。耳で聞いたことを信じて、目で見たことを疑うのは、昔から今まで人々の患いです。だから秦王は韓非の書に嘆息してその人柄を思い、漢の武帝は司馬相如の文に心を高ぶらせて、同じ世に生まれなかったことを恨みました。ところがいざ本人を得ると、結局は取り立てることができず、一方は讒言を受け入れて誅殺し、一方は閑職に放り出しました。これはまさに、葉公が龍の絵姿を好みながら、本物の龍を見て顔色を失ったようなものです。
解説
『抱朴子』広譬の一節。秦王(のちの始皇帝)は韓非の書に感嘆して著者に会いたいと願い、漢の武帝は司馬相如の文を読んで同時代に生まれなかったと惜しみましたが、本人が目の前に現れると登用できず、一方は讒言で殺し、一方は閑職に追いやりました。この矛盾を、龍の模様を好んだ葉公が本物の龍を見て驚いたという故事にたとえます。遠くの理想には惹かれるのに、身近な本物の人材を生かせない人間の癖を突いています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
貴遠賤近葉公好竜人材先入観韓非司馬相如
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