群書治要 / 『群書治要』呂氏春秋・最上の忠言は耳に逆らう
至忠逆於耳、倒於心、非賢主其孰能聽之、故賢主之所說、不肖主之所誅也。今有樹於此、而欲其美也。人時灌之、則惡之、而日伐其根、則必無活樹矣。夫惡聞忠言、自伐之精者也。
新字:至忠逆於耳、倒於心、非賢主其孰能聴之、故賢主之所説、不肖主之所誅也。今有樹於此、而欲其美也。人時灌之、則悪之、而日伐其根、則必無活樹矣。夫悪聞忠言、自伐之精者也。
書き下し
至忠は耳に逆らい、心に倒る。賢主に非ざれば其れ孰か能く之を聴かん。故に賢主の説ぶ所は、不肖の主の誅する所なり。今樹此に有り、其の美ならんことを欲するなり。人時に之に灌げば、則ち之を悪み、而るに日に其の根を伐れば、則ち必ず活樹無し。夫れ忠言を聞くを悪むは、自ら伐るの精なる者なり。
現代語訳
最上の忠言は耳に逆らい、心にもそむきます。賢い君主でなければ、誰がこれを聴き入れられるでしょう。だから賢い君主が喜ぶものを、愚かな君主は罰するのです。ここに一本の木があって、美しく育てたいと願うとします。人が折々に水をやるのは嫌がり、毎日その根を伐るなら、生きた木になるはずがありません。忠言を聞くのを嫌うのは、自分を伐ることの最たるものです。
解説
『呂氏春秋』の一節で、耳の痛い忠告こそ最上の忠であるのに、聞き入れられるのは賢い君主だけだと述べます。水やりを嫌いながら根を伐る木の例えが、直言を嫌う愚かさを鮮やかに示します。諫言を受け入れるかどうかが国の興亡を分けるという見方は、古典に繰り返し現れます。現代の管理職にとっては、部下が言いにくいことを言ってくれる状態を保てているかが問われます。反論に不機嫌になれば、次からは誰も言わなくなります。聞く側の度量が、組織の健康を左右します。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
呂氏春秋忠言諫言賢主直言自伐
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