群書治要 / 『群書治要』魏志・功は賢士大夫の力
吾起義兵誅暴亂、於今十九年、所征必克、豈吾功哉。乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定、吾當要與賢士大夫共定之、而專饗其勞、吾何以安焉。
新字:吾起義兵誅暴乱、於今十九年、所征必克、豈吾功哉。乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定、吾当要与賢士大夫共定之、而専饗其労、吾何以安焉。
書き下し
吾、義兵を起こして暴乱を誅し、今に於いて十九年、征する所必ず克つ。豈に吾が功ならんや。乃ち賢士大夫の力なり。天下未だ悉くは定まらずと雖も、吾当に賢士大夫と要共に之を定むべし。而るに専ら其の労を饗けば、吾何を以て安んぜんや。
現代語訳
私が義兵を起こして暴乱を討ってから十九年、戦えば必ず勝ってきた。これがどうして私一人の功であろうか。ひとえに賢者や士大夫たちの力である。天下はまだすべて平定されたわけではないが、私は賢者や士大夫とともにこれを定めねばならない。それなのに、その労苦の成果を私一人で受けとるなら、どうして心が安らかでいられようか。
解説
魏の太祖、曹操が建安十二年に出した令の一節です。この令では、そのあとに功臣二十余人を列侯に封じ、戦没者の遺児にも恩賞を与えました。言葉だけでなく、実際の恩賞が続いている点が大事です。成功の理由を自分一人の手柄とせず、功を分け合う姿勢を宣言し、すぐに処遇で示しています。成果が出たときこそ、誰の力が大きかったかを具体的に挙げ、報いの形を示すことが、次の協力を呼びます。曹操は人材を集める名人でもあり、その背景にこうした公言があったと読めます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
功の分配賢士論功行賞曹操感謝士大夫
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