艮斎閑話抄録 / 功を遂げて退く名士と天野康景の決断
昔の楠、今の竹中と人に畏敬せられし人なり、此人三木の陣に在し時、書寫山にて僧の具數を求め、高野山に登せ置、城を攻落したらん後は、必世を遁れんと思ひしと見へたり、秀吉我勢の起るに隨ひ重治に及ばざるを知彼を深く忌に因て、かくは思ひ立しなるべし、古の陶朱子房の儔にや、其志のならずして身早く死せしは惜むべし、又幸なりとも云ん、誠に尊ぶべき名士なり、天野三郎兵衞康景は少小より、東照公の左右に給事し、屢戰功を立て、駿河の內にて一萬石を賜ふ、嘗て築造の事あり、步卒に命じ竹木を切置くを、公領の百姓夜中に盜みしかば、步卒に命じ夜番をつけ置しが、其夜も大勢來り竹木を奪はんとす、步卒制すれども聽ざるゆへ、憤り刀を拔て一人を斬傷を負せたり、此者縣令へ訴へ喧嘩にて斬れしと云、縣令人を以切りし步卒をさし出すべき由嚴しく康景に言、康景は喧嘩にあらず竹木の盜賊と思ひ公領の民とは知ず傷つけしなり、且我命じて竹木を守らしめ其盜賊を斬たるに、何ぞ此者を差出すべきと云り、此事爭論となり、公裁を受、本多正純密に來り喩して其人を强てさし出さしむ、康景は步卒なりとも我臣なり、臣として君に忠ある者さし出すは不義なり、我寧祿を棄て步を助けんとて出奔し、其終る所をしらず、孟子行一不義、殺一不辜、而得天下、不爲也、とあれども、漢士に其實事の確證を見ず、康景の如き、一步卒の爲に萬鍾の祿を棄る屣を脫する如く、飄然逸去せしは、孟子の言に近く、古今に希なる高風淸節の名賢なり、
新字:昔の楠、今の竹中と人に畏敬せられし人なり、此人三木の陣に在し時、書写山にて僧の具数を求め、高野山に登せ置、城を攻落したらん後は、必世を遁れんと思ひしと見へたり、秀吉我勢の起るに随ひ重治に及ばざるを知彼を深く忌に因て、かくは思ひ立しなるべし、古の陶朱子房の儔にや、其志のならずして身早く死せしは惜むべし、又幸なりとも云ん、誠に尊ぶべき名士なり、天野三郎兵衛康景は少小より、東照公の左右に給事し、屡戦功を立て、駿河の内にて一万石を賜ふ、嘗て築造の事あり、歩卒に命じ竹木を切置くを、公領の百姓夜中に盗みしかば、歩卒に命じ夜番をつけ置しが、其夜も大勢来り竹木を奪はんとす、歩卒制すれども聴ざるゆへ、憤り刀を抜て一人を斬傷を負せたり、此者県令へ訴へ喧嘩にて斬れしと云、県令人を以切りし歩卒をさし出すべき由厳しく康景に言、康景は喧嘩にあらず竹木の盗賊と思ひ公領の民とは知ず傷つけしなり、且我命じて竹木を守らしめ其盗賊を斬たるに、何ぞ此者を差出すべきと云り、此事争論となり、公裁を受、本多正純密に来り喩して其人を強てさし出さしむ、康景は歩卒なりとも我臣なり、臣として君に忠ある者さし出すは不義なり、我寧禄を棄て歩を助けんとて出奔し、其終る所をしらず、孟子行一不義、殺一不辜、而得天下、不為也、とあれども、漢士に其実事の確証を見ず、康景の如き、一歩卒の為に万鍾の禄を棄る屣を脱する如く、飄然逸去せしは、孟子の言に近く、古今に希なる高風清節の名賢なり、
書き下し
昔の楠、今の竹中と人に畏敬せられし人なり、此人三木の陣に在し時、書寫山にて僧の具數を求め、高野山に登せ置、城を攻落したらん後は、必世を遁れんと思ひしと見へたり、秀吉我勢の起るに隨ひ重治に及ばざるを知彼を深く忌に因て、かくは思ひ立しなるべし、古の陶朱子房の儔にや、其志のならずして身早く死せしは惜むべし、又幸なりとも云ん、誠に尊ぶべき名士なり、天野三郎兵衞康景は少小より、東照公の左右に給事し、屢戰功を立て、駿河の內にて一萬石を賜ふ、嘗て築造の事あり、步卒に命じ竹木を切置くを、公領の百姓夜中に盜みしかば、步卒に命じ夜番をつけ置しが、其夜も大勢來り竹木を奪はんとす、步卒制すれども聽ざるゆへ、憤り刀を拔て一人を斬傷を負せたり、此者縣令へ訴へ喧嘩にて斬れしと云、縣令人を以切りし步卒をさし出すべき由嚴しく康景に言、康景は喧嘩にあらず竹木の盜賊と思ひ公領の民とは知ず傷つけしなり、且我命じて竹木を守らしめ其盜賊を斬たるに、何ぞ此者を差出すべきと云り、此事爭論となり、公裁を受、本多正純密に來り喩して其人を强てさし出さしむ、康景は步卒なりとも我臣なり、臣として君に忠ある者さし出すは不義なり、我寧祿を棄て步を助けんとて出奔し、其終る所をしらず、孟子行一不義、殺一不辜、而得天下、不爲也、とあれども、漢士に其實事の確證を見ず、康景の如き、一步卒の爲に萬鍾の祿を棄る屣を脫する如く、飄然逸去せしは、孟子の言に近く、古今に希なる高風淸節の名賢なり、
現代語訳
昔の楠(楠木正成)、今の竹中と人に畏れ敬われた人です。この人は三木の陣にいた時、書写山で僧の道具一式を求めて高野山に送り置き、城を攻め落としたあとは必ず世を逃れようと思っていたと見えます。秀吉は自分の勢いが起こるにつれ、重治に及ばないことを知り、深く彼を忌み嫌ったので、こう思い立ったのでしょう。古の陶朱(范蠡)や子房(張良)の仲間でしょうか。その志が遂げられずに早く亡くなったのは惜しむべきことです。また幸いだったとも言えるでしょう。まことに尊ぶべき名士です。天野三郎兵衛康景は若いころから東照公(徳川家康)の側に仕え、しばしば戦功を立て、駿河の内で一万石を賜りました。かつて築造の事があり、歩卒に命じて竹木を切って置かせたところ、公領の百姓が夜中にこれを盗んだので、歩卒に命じて夜番をつけておきました。その夜も大勢が来て竹木を奪おうとし、歩卒が制止しても聞かないため、憤って刀を抜き、一人を斬って傷を負わせました。この者は県令(代官)に訴え、喧嘩で斬られたと言いました。県令は人を遣わし、斬った歩卒を差し出すよう康景に厳しく言いました。康景は、喧嘩ではなく竹木の盗賊と思い、公領の民とは知らずに傷つけたのだ、しかも自分が命じて竹木を守らせ、その盗賊を斬ったのに、どうしてこの者を差し出せようかと言いました。この件は争論となり、公の裁定を受けることになり、本多正純がひそかに来て諭し、無理にもその者を差し出させようとしました。康景は、歩卒であっても自分の家臣である、臣として君に忠のある者を差し出すのは不義である、自分はむしろ禄を捨てて歩卒を助けようと言い、出奔して、その最期は知られていません。孟子に「一つの不義を行い、一人の罪なき者を殺して天下を得られるとしても、しない」とありますが、中国にはその実例の確証を見ません。康景のように、一人の歩卒のために万鐘の禄を、履物を脱ぎ捨てるように捨てて、ふらりと去ったのは、孟子の言に近く、古今に稀な高潔で清らかな名賢です。
解説
この章句が説くこと
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『艮斎閑話抄録』・浩然の気を養い義を行う人々鳶の者ども鳶口を揮ふて四車を擊しかば、刎かへりて透らずと、老人の話にて聞り、其氣の壯強なる知べし、況や聖賢道義を以て涵養し盛大流行の氣に至りては、東坡の所謂卒然遇之、賁育失其勇、良平失其智、蘇張失其辨、とは能形容せし妙文と謂べし、士君子常に此氣を養ひ充實すれば、強健の人の寒暑を畏れず風雨を厭はず、險難の地を嫌はざる如く、義理を行ふに當りて猶豫せず、決然と行ふを得るなり、此氣の不足なる人は、虛弱の人寒暑風雨を畏れて縮退する如く、義理を行ふに力薄し、孔子所謂見義不爲無勇也と、此樣なる人を指、浩然の氣は大勇のとにて、踏張づよき勢ありて、道義を行ふに苦勞無を云なり、漢士には高風淸節の士、越の范蠡、漢の張良、唐の李泌の類、功成名遂て世を避し人多し、吾邦にても中納言藤房後醍醐帝に忠節を盡し、廟謨を翼賛し、北條氏を亡ぼし、天下の大功を立玉ひしが、後に 帝其諫言を用ひ玉はざるに因て、飄然として都を去、雲踪杳然、其終る所を知ざるは希世の名賢なり、先年伊豆の熱海の溫泉に浴せし時、村中を逍遙せしに溫泉寺と云寺あり、此寺授翁和尙の開基なり、授翁は即藤房卿にて、庭中の松其手植なりと住持の僧語られき、寺に澤元愷の記文あり、記中にも此事を載たり、公卿の位を棄て僻落山水の間に隱れ玉ひしは、范蠡にも譲らざる尊き人なり、竹中半兵衞重治は美濃の人にて、豐臣氏に從がひ帷幕の謀主として、凡秀吉の戰功雄略は重治の翼贊せし所なり、
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