艮斎閑話抄録 / 気を養い無形の英気で人を圧する
人は陰陽の氣にて生ずるなれば、一身の氣は即天地の氣なり、此氣の本體は至大至剛なるものにして金石を貫ぬき宇內に充塞するなり、集義の工夫を以養ふは孟子の活然の氣なり、古の英雄は孟子とは相違あれども此氣盛大なる所なり、樓煩が弓を彎し項羽を射んとせし時、項羽目を瞋らし叱りければ、樓煩目眩し身戰ひ人馬辟易すと云、所謂蓋世の氣想ふべし、新納武藏始めて太閤秀吉謁見の時、秀吉また軍したきかと云、主人一心齋に敵對いたすならば幾度も軍はいたすべしと答ふ、秀吉流石の勇士なりとの玉ひ陣羽織を脫し賜はりし、武藏進みて拜受し、次の間に退く、又やる物があるとて側に立置たる白刃の眉尖刀螻蛄首をとり、石突の方を出し授けられしに、武藏戰々として身ふるひながら近く進みて受取しとなり、既に歸宅せしが、少年の壯士ども武藏に今日如何なされしと問、武藏いわく、我等の手向する人にあらず、今日は武藏も腰が拔しと答へたり、是は武藏謁見の時、秀吉を一刀に刺んと人に語りしゆへなり、秀吉の氣盛りにして勇士を壓服せしは項王に讓らず、人の氣一身に流行し毛孔より煙の如くに發出す、人の目に其形は見へざれども、必發散す、英雄の人は其氣沛然として、人を衝擊する無形の英氣は有形の矢石より其心志を壓倒するは强きものと見へたり、大力の壯夫奮然として勇氣を張ば、骨骼森起して金鐵も透らぬなり、近世四車と云角力、芝神明にて大勢の鳶の者と喧嘩に及び、三四人を斬伏たり、
新字:人は陰陽の気にて生ずるなれば、一身の気は即天地の気なり、此気の本体は至大至剛なるものにして金石を貫ぬき宇内に充塞するなり、集義の工夫を以養ふは孟子の活然の気なり、古の英雄は孟子とは相違あれども此気盛大なる所なり、楼煩が弓を彎し項羽を射んとせし時、項羽目を瞋らし叱りければ、楼煩目眩し身戦ひ人馬辟易すと云、所謂蓋世の気想ふべし、新納武蔵始めて太閤秀吉謁見の時、秀吉また軍したきかと云、主人一心斎に敵対いたすならば幾度も軍はいたすべしと答ふ、秀吉流石の勇士なりとの玉ひ陣羽織を脱し賜はりし、武蔵進みて拝受し、次の間に退く、又やる物があるとて側に立置たる白刃の眉尖刀螻蛄首をとり、石突の方を出し授けられしに、武蔵戦々として身ふるひながら近く進みて受取しとなり、既に帰宅せしが、少年の壮士ども武蔵に今日如何なされしと問、武蔵いわく、我等の手向する人にあらず、今日は武蔵も腰が抜しと答へたり、是は武蔵謁見の時、秀吉を一刀に刺んと人に語りしゆへなり、秀吉の気盛りにして勇士を圧服せしは項王に譲らず、人の気一身に流行し毛孔より煙の如くに発出す、人の目に其形は見へざれども、必発散す、英雄の人は其気沛然として、人を衝撃する無形の英気は有形の矢石より其心志を圧倒するは強きものと見へたり、大力の壮夫奮然として勇気を張ば、骨骼森起して金鉄も透らぬなり、近世四車と云角力、芝神明にて大勢の鳶の者と喧嘩に及び、三四人を斬伏たり、
書き下し
人は陰陽の氣にて生ずるなれば、一身の氣は即天地の氣なり、此氣の本體は至大至剛なるものにして金石を貫ぬき宇內に充塞するなり、集義の工夫を以養ふは孟子の活然の氣なり、古の英雄は孟子とは相違あれども此氣盛大なる所なり、樓煩が弓を彎し項羽を射んとせし時、項羽目を瞋らし叱りければ、樓煩目眩し身戰ひ人馬辟易すと云、所謂蓋世の氣想ふべし、新納武藏始めて太閤秀吉謁見の時、秀吉また軍したきかと云、主人一心齋に敵對いたすならば幾度も軍はいたすべしと答ふ、秀吉流石の勇士なりとの玉ひ陣羽織を脫し賜はりし、武藏進みて拜受し、次の間に退く、又やる物があるとて側に立置たる白刃の眉尖刀螻蛄首をとり、石突の方を出し授けられしに、武藏戰々として身ふるひながら近く進みて受取しとなり、既に歸宅せしが、少年の壯士ども武藏に今日如何なされしと問、武藏いわく、我等の手向する人にあらず、今日は武藏も腰が拔しと答へたり、是は武藏謁見の時、秀吉を一刀に刺んと人に語りしゆへなり、秀吉の氣盛りにして勇士を壓服せしは項王に讓らず、人の氣一身に流行し毛孔より煙の如くに發出す、人の目に其形は見へざれども、必發散す、英雄の人は其氣沛然として、人を衝擊する無形の英氣は有形の矢石より其心志を壓倒するは强きものと見へたり、大力の壯夫奮然として勇氣を張ば、骨骼森起して金鐵も透らぬなり、近世四車と云角力、芝神明にて大勢の鳶の者と喧嘩に及び、三四人を斬伏たり、
現代語訳
人は陰陽の気によって生まれるものですから、一身の気はすなわち天地の気です。この気の本体はこの上なく大きく強いもので、金石を貫き、宇宙に満ちています。義を集める工夫によってこれを養うのが、孟子の浩然の気です。昔の英雄は孟子とは異なりますが、この気が盛んな者でした。楼煩が弓を引いて項羽を射ようとしたとき、項羽が目をいからせて叱ると、楼煩は目がくらみ、身は震え、人も馬も恐れて退いたといいます。いわゆる世を覆う気概が思い浮かびます。新納武蔵が初めて太閤秀吉に謁見した時、秀吉が「また軍をしたいか」と言うと、武蔵は「主人の一心斎に敵対されるならば何度でも軍をいたします」と答えました。秀吉は「さすがは勇士である」と言って陣羽織を脱いで与えました。武蔵は進み出て拝領し、次の間に退きました。秀吉は、まだやる物があると、側に立てかけてあった白刃の眉尖刀の螻蛄首(柄の付け根)を取って石突の方を出して与えたところ、武蔵は震えながら近くに進んで受け取ったそうです。すでに帰宅すると、若い壮士たちが武蔵に今日はどうだったかと問いました。武蔵は「あの方は我らの手向かいできる人ではない。今日は武蔵も腰が抜けた」と答えました。これは武蔵が謁見のとき、秀吉を一刀に刺そうと人に語っていたためです。秀吉の気が盛んで勇士を圧服したことは、項王に劣りません。人の気は一身に行き渡り、毛孔から煙のように発し出ます。人の目にその形は見えませんが、必ず発散します。英雄の人はその気が盛んで、人を衝き動かす無形の英気は、有形の矢石よりも人の心志を圧倒する強いものと見えます。力の強い壮夫が奮然として勇気を張れば、骨格が盛り上がり、金や鉄も通さないものです。近ごろの四車という力士が、芝神明で大勢の鳶の者と喧嘩になり、三、四人を斬り伏せました。
解説
この章句が説くこと
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『艮斎閑話抄録』・浩然の気を養い義を行う人々鳶の者ども鳶口を揮ふて四車を擊しかば、刎かへりて透らずと、老人の話にて聞り、其氣の壯強なる知べし、況や聖賢道義を以て涵養し盛大流行の氣に至りては、東坡の所謂卒然遇之、賁育失其勇、良平失其智、蘇張失其辨、とは能形容せし妙文と謂べし、士君子常に此氣を養ひ充實すれば、強健の人の寒暑を畏れず風雨を厭はず、險難の地を嫌はざる如く、義理を行ふに當りて猶豫せず、決然と行ふを得るなり、此氣の不足なる人は、虛弱の人寒暑風雨を畏れて縮退する如く、義理を行ふに力薄し、孔子所謂見義不爲無勇也と、此樣なる人を指、浩然の氣は大勇のとにて、踏張づよき勢ありて、道義を行ふに苦勞無を云なり、漢士には高風淸節の士、越の范蠡、漢の張良、唐の李泌の類、功成名遂て世を避し人多し、吾邦にても中納言藤房後醍醐帝に忠節を盡し、廟謨を翼賛し、北條氏を亡ぼし、天下の大功を立玉ひしが、後に 帝其諫言を用ひ玉はざるに因て、飄然として都を去、雲踪杳然、其終る所を知ざるは希世の名賢なり、先年伊豆の熱海の溫泉に浴せし時、村中を逍遙せしに溫泉寺と云寺あり、此寺授翁和尙の開基なり、授翁は即藤房卿にて、庭中の松其手植なりと住持の僧語られき、寺に澤元愷の記文あり、記中にも此事を載たり、公卿の位を棄て僻落山水の間に隱れ玉ひしは、范蠡にも譲らざる尊き人なり、竹中半兵衞重治は美濃の人にて、豐臣氏に從がひ帷幕の謀主として、凡秀吉の戰功雄略は重治の翼贊せし所なり、
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『講孟余話』公孫丑上 第二章「直を以て養ふ」と云ふ同じ工夫にて、平日する所悉く直道に外るることなくして、是れを以て此の気を養育することなり。「其の気を暴ふことなかれ」と云ふは、即ち「害ふことなし」と云ふと同じ。害すると云ひ、暴ふと云ふに二様あり。一は私欲を肆にし、直道を以て志を持することを忘るる時は、自ら省みて愧づる所あり、大いに気を暴ひ害するなり。是れ即ち下節の所謂「苗を耘らざる者」なり。二は浩然の気の至大至剛は、為す所道義に合ふよりして自ら生ずる者なり。然るに道義に合ふと合はぬとをも考へず、向う見ずに大と剛とをなさんとする時は、一時は我慢血気にて狂暴粗豪を以て剛も大もなすべけれども、遂には愈々自ら省みて愧づる所あり。武田信玄の終身論語を読むこと能はざる如き、是れ最も気を暴ひ害するの大なる者なり。是れ下節の所謂「苗を□(揠)く者」なり。「天地の間に塞がる」と云ふは、其の効験を云ふなり。浩然の気は本是れ天地の間に充塞する所にして、人の得て気とする所なり。故に人能く私心を除く時は至大にして天地と同一になるなり。今吾れ一言一行細よりして、「諸を身に本づけ、諸を庶民に徴し、諸を三王に考へて繆らず、諸を天地に建てて悖らず、諸を鬼神に質して疑ひなく、百世以て聖人を俟ちて惑はず、動いて世々天下の道となり、行うて世々天下の法となり、言うて世々天下の則となる」と云ふ如くなれば、天地古今に充塞すと云ふべし。浩然の気は古来聖賢相伝へて、孟子に至り発明する所、学者に於て最も切実なること故に、特に是れを詳かにす。
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『弁名』理氣人欲浩然の気は、始めて孟子に見ゆ。其の所謂気は、天地の気に非ず、又た宋儒の所謂理気の気の若きに非ず、乃ち勇気の気なり。史伝の所謂気を使ふ、気を恃む、気を負ふと云ふ者の如きなり。本と大人に説くを主として之を言ふ。家語に曾子の行を載せて曰く、「大人を見ては浩浩たり」と。是れ其の祖述する所のみ。古の君子は礼楽以て其の徳を成し、自然に貧賤に隕穫せず、富貴に充詘せず。故に浩然の気を養ふを待たず。孟子の集義の生ずる所を観れば、則ち其の時礼楽既に壊る。故に浩然の気を養ふの説有るなり。孟子戦国の世に方りて、後車数十乗、従者数百人、諸侯に伝食し、臂を攘ひ胆を張り、以て百家と衡を争ふ。故に浩然の気も亦た其の自得する所の者を言ふ。乃ち孟子為る所以なり。学者諸を察せよ。
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『山鹿語類』士道・論養氣孟子我善養浩然之気と論ぜり。浩然の気と云ものは、孟子も難言と述べられたるが故に、今以て如此と云に処なし。唯心は気に因て或は動揺し、或は困苦するものなれば、此処を能く心得て、常に道義を以て是を養て、気の不饑が如くならしむるにありと可知。此の気を養ひ得るときは、至大至剛にして、能く万物の上に伸びて、物に屈する処あるべからざる也。心は気に因るがゆへに、気能静なる時は心則静也。気動ずるときは心こゝに動ず。是心気不両様を以て、更にへだゝる所なし。心は内にして、気は外に動ずるものなれば、先づ気を養ひ得るを修身存心の本とすべき也。
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『講孟余話』公孫丑上 第二章「孟施舎の勇を養ふ所や」。此の章浩然の気を論ず、其の論甚だ盛大雄偉なり。北宮黝・孟施舎の勇の如きは固より言ふに足らず。但し孟施舎の勇は、武士戦場に向ふ時は角こそ有り度きことなり、因りて其の略を言はん。無懼の二字是れ主なり。勇気敵を呑むと云ふ如く、百万の大敵目に余ると雖も、屑ともせぬことなり。死を知れば必ず勇と云へば、打死と覚悟さへ定まりたれば、大敵猛勢も畏るるに足ることなし。然れども此の勇を養ひて大になさざれば、仮令覚悟定まりたれども、勇気敵を呑む所なし、未だ孟施舎の勇を語るに足らず。孟施舎の如き者一人陣中にあれば、惣軍の気是れが為に大いに増盛し、敗軍も転じて勝軍となる者なり。此の人一人国中にあれば、闔国の気是れが為に増盛し、弱国も転じて強国となる者なり。況や此の人を挙げて将帥の任となすに於てをや。強将の下弱兵なきこと必せり。士安ぞ茲に志さざるべけんや。
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『和俗男子訓』・巻一・一元気を養い勇気を増す道一およそ天のおほふところ、地の載るところ、日月のかはる〱照すところ、四時晝夜のたがひなきところ、皆是一元氣の其間に充るが故なり、人もまた小天地なり、生をうくるのはじめより、各一元氣をうけ得たり、しかれども、其うまれ得たるところに、厚さあり、薄さあり、厚さはもとより幸の甚しきなり、薄きは、養ふて厚ふすべし、やしなふに道あり、しかりとて、もとよりなき氣を、外よりもとめ來るにはあらず、うまれつきたる氣の、外物にうばはれて、小くなりたるを、おしへみちびきて、大にするなり、小きを大にするの道は、氣を躰に充しむるにあり、しかれども一旦一朝に得ることにあらず、常に心をつけて、おこたらざるときは、漸をもつてなれり、少壯にしてよくつとむれば、老大に及てもおとろえず、勇氣ます〱すゝめり、養氣充躰の手段は、面授にあらずんば、曉しがたし、筆墨の及ぶところにはあらず、一勇氣ありて、非力なるあり、强力にして、勇氣なき有、有氣と强力とを兼たるあり、孟賁がたぐひ是なり、むかし孟賁河を過るに、其伍にさきだてり、船人いかつて、檝を以てうたんとす、孟賁目をいからしてにらむに、髪さかさまにたつて、目と〱く裂り、船中の人、おそれて河に入ると見えたり、

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