艮斎閑話抄録 / 武家は武家の風を守る
昔し漢と匈奴と和親を結び、衣服飮食の類を贈りしに、匈奴の臣衞律其主に勸め、中國の衣服飮食は華靡に過ぎて匈奴の物に及ばざるを國人に示し、夷狄勇悍の風を守しは遠識ありと謂べし、契丹の阿保機は五代の亂に乘じ、屢中國に亂入し勢盛なり、唐の明宗の時、姚坤を使に遣せしとき、阿保機云、吾れ漢語を能すれども士卒に向てこれを言はず、漢人に倣て怯弱になるを恐ると、是も卓見なり、蒙古は此理に通ぜざるゆへ既に中國を一統せし後は中國の風俗と成り、浮華を喜び舊俗の勇悍を失ひしゆへ八九十年にて亡ぶ、今の淸朝も北狄より起り中國の主となる、然るに唐山一統に韃靼の剃頭辮髮の俗に盡く變じ、中國華奢輕薄の風を學ばざるゆへ、國勢の強き版圖の廣き千古に超軼す、これは北魏蒙古の弊に懲り、夷狄を以て華夏を變ぜしは雄偉非常の遠謀と謂べし、(趙の武靈王の群臣の說を排し胡服騎射せしも、是と同じ、)衣冠文物の類は禮文の末なり、國勢を強くし紀綱を正ふし風俗敦樸ならば、衣冠文物は質野にても何の害あらんや、虛文を慕ふて國勢を柔弱にするは甚だ不可なり、吾邦鎌倉將軍以來天下の大勢一變せり、武家は武家の風俗を守り、英武忠貞を主とすべし、然るに武家の衣冠官名の典雅ならざるを嫌ひ、制度を變ぜんと思ふ者は、大なる心得違にて、王安石が新法と同かるべし、
新字:昔し漢と匈奴と和親を結び、衣服飲食の類を贈りしに、匈奴の臣衛律其主に勧め、中国の衣服飲食は華靡に過ぎて匈奴の物に及ばざるを国人に示し、夷狄勇悍の風を守しは遠識ありと謂べし、契丹の阿保機は五代の乱に乗じ、屡中国に乱入し勢盛なり、唐の明宗の時、姚坤を使に遣せしとき、阿保機云、吾れ漢語を能すれども士卒に向てこれを言はず、漢人に倣て怯弱になるを恐ると、是も卓見なり、蒙古は此理に通ぜざるゆへ既に中国を一統せし後は中国の風俗と成り、浮華を喜び旧俗の勇悍を失ひしゆへ八九十年にて亡ぶ、今の清朝も北狄より起り中国の主となる、然るに唐山一統に韃靼の剃頭辮髪の俗に尽く変じ、中国華奢軽薄の風を学ばざるゆへ、国勢の強き版図の広き千古に超軼す、これは北魏蒙古の弊に懲り、夷狄を以て華夏を変ぜしは雄偉非常の遠謀と謂べし、(趙の武霊王の群臣の説を排し胡服騎射せしも、是と同じ、)衣冠文物の類は礼文の末なり、国勢を強くし紀綱を正ふし風俗敦樸ならば、衣冠文物は質野にても何の害あらんや、虚文を慕ふて国勢を柔弱にするは甚だ不可なり、吾邦鎌倉将軍以来天下の大勢一変せり、武家は武家の風俗を守り、英武忠貞を主とすべし、然るに武家の衣冠官名の典雅ならざるを嫌ひ、制度を変ぜんと思ふ者は、大なる心得違にて、王安石が新法と同かるべし、
書き下し
昔し漢と匈奴と和親を結び、衣服飮食の類を贈りしに、匈奴の臣衞律其主に勸め、中國の衣服飮食は華靡に過ぎて匈奴の物に及ばざるを國人に示し、夷狄勇悍の風を守しは遠識ありと謂べし、契丹の阿保機は五代の亂に乘じ、屢中國に亂入し勢盛なり、唐の明宗の時、姚坤を使に遣せしとき、阿保機云、吾れ漢語を能すれども士卒に向てこれを言はず、漢人に倣て怯弱になるを恐ると、是も卓見なり、蒙古は此理に通ぜざるゆへ既に中國を一統せし後は中國の風俗と成り、浮華を喜び舊俗の勇悍を失ひしゆへ八九十年にて亡ぶ、今の淸朝も北狄より起り中國の主となる、然るに唐山一統に韃靼の剃頭辮髮の俗に盡く變じ、中國華奢輕薄の風を學ばざるゆへ、國勢の強き版圖の廣き千古に超軼す、これは北魏蒙古の弊に懲り、夷狄を以て華夏を變ぜしは雄偉非常の遠謀と謂べし、(趙の武靈王の群臣の說を排し胡服騎射せしも、是と同じ、)衣冠文物の類は禮文の末なり、國勢を強くし紀綱を正ふし風俗敦樸ならば、衣冠文物は質野にても何の害あらんや、虛文を慕ふて國勢を柔弱にするは甚だ不可なり、吾邦鎌倉將軍以來天下の大勢一變せり、武家は武家の風俗を守り、英武忠貞を主とすべし、然るに武家の衣冠官名の典雅ならざるを嫌ひ、制度を變ぜんと思ふ者は、大なる心得違にて、王安石が新法と同かるべし、
現代語訳
昔、漢と匈奴が和親を結び、漢が衣服や飲食の類を贈ったとき、匈奴の臣下の衛律は主君に勧めて、中国の衣服や飲食が華美に過ぎて匈奴の物に及ばないことを国人に示し、異民族の勇ましい風を守りました。これは見通しのあることといえます。契丹の阿保機は五代の乱に乗じて、たびたび中国に侵入して勢いが盛んでした。唐の明宗のとき、姚坤を使者に遣わしたところ、阿保機は「私は漢語ができるが、兵士に向かって使わない。漢人にならって臆病になることを恐れるからだ」と言いました。これも卓見です。蒙古はこの理を知らなかったので、中国を統一した後は中国の風俗になり、浮ついた華やかさを喜び、旧来の勇ましい風俗を失ったため、八、九十年で滅びました。今の清朝も北方の異民族から起こって中国の主となりました。しかし中国統一に際して、韃靼の剃頭・辮髪の風俗にすべて改め、中国の華美で軽薄な風を学ばなかったので、国勢の強さや版図の広さは千古に抜きんでました。これは北魏・蒙古の弊害を戒めとして、異民族の風で中華を変えたもので、雄大で非凡な遠謀といえます。(趙の武霊王が群臣の説を退けて胡服騎射を行ったのも、これと同じです。)衣冠文物の類は礼文の末です。国勢を強くし、規律を正し、風俗が篤実で素朴であれば、衣冠文物が質素で野暮でも何の害がありましょうか。中身のない飾りを慕って国勢を柔弱にするのは、たいへんよくありません。わが国では鎌倉将軍以来、天下の大勢が一変しました。武家は武家の風俗を守り、英武と忠貞を主とすべきです。それなのに、武家の衣冠や官名が典雅でないことを嫌って制度を変えようとする者は、大きな心得違いで、王安石の新法と同じことになるでしょう。
解説
この章句が説くこと
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