五常訓 / 巻之五・智
一論語曰、不知言無以知人。是人を知るの法なり。人の邪正は、言にあらはる。言は心の聲なりと、古人もいへり。言の、理にかなふと叶はざるとによりて、其人の邪正を知るべし。もし言の是非を辨へずば、人の邪正は知りがたし。然れば人を知らんとならば、言を聞きて、其言の理にあたると、當らざるとを察むべし。
新字:一論語曰、不知言無以知人。是人を知るの法なり。人の邪正は、言にあらはる。言は心の声なりと、古人もいへり。言の、理にかなふと叶はざるとによりて、其人の邪正を知るべし。もし言の是非を弁へずば、人の邪正は知りがたし。然れば人を知らんとならば、言を聞きて、其言の理にあたると、当らざるとを察むべし。
書き下し
一論語に曰く、言を知らざれば以て人を知ること無し。是人を知るの法なり。人の邪正は、言にあらはる。言は心の声なりと、古人もいへり。言の、理にかなふと叶はざるとによりて、其人の邪正を知るべし。もし言の是非を弁へずば、人の邪正は知りがたし。然れば人を知らんとならば、言を聞きて、其言の理にあたると、当らざるとを察むべし。
現代語訳
『論語』に「言葉を知らなければ、人を知ることはできない」とあります。これが人を知る法です。人の邪正は言葉に表れます。「言葉は心の声である」と古人も言いました。言葉が理にかなうか、かなわないかによって、その人の邪正を知るべきです。もし言葉の是非をわきまえなければ、人の邪正は知りがたいのです。ですから人を知ろうとするなら、言葉を聞いて、その言葉が理に当たっているか、当たっていないかを察するべきです。
解説
論語の最後、堯曰篇の結びの言葉「言を知らざれば、以て人を知ること無きなり」を、人を知る方法として取り上げています。漢の揚雄の「言は心の声なり」も引き、人の邪正は言葉に表れるので、その言葉が理にかなっているかどうかを聞き分けよと説きます。前の段で口のうまさで人を取るなと戒めたこととは矛盾しません。見るべきは話の巧拙ではなく中身の筋道だということです。会議での発言や報告の論理から、その人の考え方や誠実さが見えてくるのはよくあることです。
この章句が説くこと
知人言葉論語邪正判断
関連する章句
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