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五常訓 / 巻之五・智

我を見ることは、人を見るよりくらきは、私あればなり。智を明かにせんとならば、學んで理をきはめ又私を去りて、本心をくらますべからず。愚人はくらくして、我が身を知らず、我に才德なきをも知らで、我が身にほこる。又我に大なる過惡あれども知らず。此故に、人の諫をふせぎて用ひず、却て怒り恨む。それ人聖人にあらず。誰か過なからん。然るに我が身に過なしと思へるは、智なきなり。又過を知れども、おほひかくして改めず。是を、過を恥ぢて非をなすと云ふ。皆是愚者のしわざなり。智ある人は、我が身を知れること明なる故に、我が身の過を知り、又人の諫をよろこびて聽用ひ、諫むる人を貴び、我が過をあらたむるに憚らず。故に過なきにいたる。

新字:我を見ることは、人を見るよりくらきは、私あればなり。智を明かにせんとならば、学んで理をきはめ又私を去りて、本心をくらますべからず。愚人はくらくして、我が身を知らず、我に才徳なきをも知らで、我が身にほこる。又我に大なる過悪あれども知らず。此故に、人の諫をふせぎて用ひず、却て怒り恨む。それ人聖人にあらず。誰か過なからん。然るに我が身に過なしと思へるは、智なきなり。又過を知れども、おほひかくして改めず。是を、過を恥ぢて非をなすと云ふ。皆是愚者のしわざなり。智ある人は、我が身を知れること明なる故に、我が身の過を知り、又人の諫をよろこびて聴用ひ、諫むる人を貴び、我が過をあらたむるに憚らず。故に過なきにいたる。

書き下し

我を見ることは、人を見るよりくらきは、私あればなり。智を明かにせんとならば、学んで理をきはめ又私を去りて、本心をくらますべからず。愚人はくらくして、我が身を知らず、我に才徳なきをも知らで、我が身にほこる。又我に大なる過悪あれども知らず。此故に、人の諫をふせぎて用ひず、却て怒り恨む。それ人聖人にあらず。誰か過なからん。然るに我が身に過なしと思へるは、智なきなり。又過を知れども、おほひかくして改めず。是を、過を恥ぢて非をなすと云ふ。皆是愚者のしわざなり。智ある人は、我が身を知れること明なる故に、我が身の過を知り、又人の諫をよろこびて聴用ひ、諫むる人を貴び、我が過をあらたむるに憚らず。故に過なきにいたる。

現代語訳

自分を見ることが人を見るより暗いのは、私心があるからです。智を明らかにしようとするなら、学んで理をきわめ、また私心を去って本心を暗ませてはいけません。愚かな人は暗くて自分の身を知らず、自分に才徳がないことも知らずに自分を誇ります。また自分に大きな過ちや悪があっても知りません。そのため人の諫めを拒んで用いず、かえって怒り恨みます。そもそも人は聖人ではありません。誰に過ちがないでしょうか。それなのに自分には過ちがないと思うのは、智がないのです。また過ちを知っても、覆い隠して改めません。これを「過ちを恥じて非をなす」といいます。皆愚かな者のしわざです。智ある人は、自分の身をはっきり知っているので、自分の過ちを知り、また人の諫めを喜んで聞き入れ、諫める人を尊び、自分の過ちを改めることをためらいません。ですから過ちがなくなるに至るのです。

解説

自分を知るためには、学んで理をきわめることと、私心を去ることの二つが要ると益軒は言います。愚かな人は自分の才徳のなさも過ちも知らず、諫められると怒り、過ちに気づいても隠します。これを「過ちを恥じて非をなす」と呼び、恥を避けようとしてかえって悪を重ねる心理を突いています。論語学而篇の「過ちては改むるに憚ること勿れ」に通じる教えです。ミスを報告しにくい職場ほど問題が大きくなるのは、この心理が組織の中で繰り返されるからでしょう。

この章句が説くこと

智過ち諫め私心改める

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