五常訓 / 巻之五・智
一韓非子曰、知如目也、能見百步之外、而不能自見其睫。故に知の難きは、人を見るにあらず、自ら見るにあり。又古人の語に、知人謂之知、自知謂之明といへり。知人は誠にかたし。唯知ある人、よく人を知る故に、これを知と云ふ。自ら我が身の善悪を知るは、人を知るより難し。如何となれば、我が身には私ありて、自ら是とし易し。其心あきらかに、我が身に私せずして、公なる心なくては、我が身は知りがたし。こゝを以て自知を明と云ふ。是知人よりは、自ら知るは猶明なり。こゝを以て明と云ふ。夫わが子を見るには私ある故に、人、子の惡しきを知らず。他人の子を見ること明なるは、私なければなり。人を知ることは、我を知るよりやすきは、私せざればなり。
新字:一韓非子曰、知如目也、能見百歩之外、而不能自見其睫。故に知の難きは、人を見るにあらず、自ら見るにあり。又古人の語に、知人謂之知、自知謂之明といへり。知人は誠にかたし。唯知ある人、よく人を知る故に、これを知と云ふ。自ら我が身の善悪を知るは、人を知るより難し。如何となれば、我が身には私ありて、自ら是とし易し。其心あきらかに、我が身に私せずして、公なる心なくては、我が身は知りがたし。こゝを以て自知を明と云ふ。是知人よりは、自ら知るは猶明なり。こゝを以て明と云ふ。夫わが子を見るには私ある故に、人、子の悪しきを知らず。他人の子を見ること明なるは、私なければなり。人を知ることは、我を知るよりやすきは、私せざればなり。
書き下し
一韓非子曰く、知は目の如し、能く百歩の外を見て、自ら其の睫を見ること能はず。故に知の難きは、人を見るにあらず、自ら見るにあり。又古人の語に、人を知る之を知と謂ひ、自ら知る之を明と謂ふといへり。知人は誠にかたし。唯知ある人、よく人を知る故に、これを知と云ふ。自ら我が身の善悪を知るは、人を知るより難し。如何となれば、我が身には私ありて、自ら是とし易し。其心あきらかに、我が身に私せずして、公なる心なくては、我が身は知りがたし。ここを以て自知を明と云ふ。是知人よりは、自ら知るは猶明なり。ここを以て明と云ふ。夫わが子を見るには私ある故に、人、子の悪しきを知らず。他人の子を見ること明なるは、私なければなり。人を知ることは、我を知るよりやすきは、私せざればなり。
現代語訳
『韓非子』に「知は目のようなものだ。百歩の外は見えるのに、自分のまつげを見ることはできない」とあります。ですから知の難しさは、人を見ることではなく、自分を見ることにあるのです。また古人の言葉に「人を知るのを知といい、自分を知るのを明という」とあります。人を知ることは誠に難しいものです。ただ知のある人はよく人を知るので、これを知といいます。自分で自分の身の善悪を知ることは、人を知るよりも難しいのです。なぜなら、自分の身には私心があって、自分を正しいとしやすいからです。心が明らかで、自分の身に私心を持たず、公平な心がなくては、自分の身は知りがたいのです。それで自分を知ることを明というのです。人を知るよりも、自分を知るほうがなお明らかさを要します。それで明というのです。そもそも自分の子を見るときには私心があるので、人は自分の子の悪いところを知りません。他人の子をはっきり見られるのは、私心がないからです。人を知ることが自分を知ることより易しいのは、私心を持たないからです。
解説
この章句が説くこと
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『五常訓』巻之五・智我を見ることは、人を見るよりくらきは、私あればなり。智を明かにせんとならば、学んで理をきはめ又私を去りて、本心をくらますべからず。愚人はくらくして、我が身を知らず、我に才徳なきをも知らで、我が身にほこる。又我に大なる過悪あれども知らず。此故に、人の諫をふせぎて用ひず、却て怒り恨む。それ人聖人にあらず。誰か過なからん。然るに我が身に過なしと思へるは、智なきなり。又過を知れども、おほひかくして改めず。是を、過を恥ぢて非をなすと云ふ。皆是愚者のしわざなり。智ある人は、我が身を知れること明なる故に、我が身の過を知り、又人の諫をよろこびて聴用ひ、諫むる人を貴び、我が過をあらたむるに憚らず。故に過なきにいたる。
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『大和俗訓』巻之四・心術下一我が愚を知らず、我があやまりを知らずして、自ら是とし、自ら知とすると、吾が芸能のつたなきを知らずして、みづからほこるは、皆心明ならざる故なり。人を知るはまことにかたし。人の胸中に、善悪かくれて見えざればなり。わが心中にある善悪は、わが身のことなれば、知りやすかるべくして、かへつて人を知るよりもかたし。いかんとなれば、わが身に私して、其悪しきを知らざればなり。故に古語に曰く、人を知るを之れ知と謂ひ、自ら知るを之れ明と謂ふ。人を知るは誠にかたしといへど、わが身を知るは人を知るよりもかたければ、是を明と云ふ。明は知より猶まされり。吾が心明なれば、わが身の悪しきを知るものなり。故にわが身に自満して人にほこる者は、其心くらきゆゑ、わが悪しきを知らざるなり。
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『慎思録』巻之一古語に云ふ、人を知る之を知と謂ひ、自ら知る之を明と謂ふと。是れ自ら知ることの最も難きを言ふなり。然れども人を知ることも亦甚だ難し。蓋し其の知愚奸直邪正に依る所、其の心曲に隠れて、察し易からざればなり。夫の自ら知る者の若きは、是れ吾が心曲の独り知る所なり。其の是非曲直、誠に明らかにし易かるべし。却りて最も難しと為すは、何ぞや。蓋し衆人は私意蔽固にして、往往自ら是とし自ら足れりとし、知らざるを以て之を知ると為し、未だ能くせざるを以て既に能くすと為す。是を以て自ら知るを最も難しと為す。世に自ら夸るの人有り。是れ愚の甚だしき者なり。何となれば則ち自ら夸る者は、自ら知ること能はず。自ら知ること能はざる者は、照察の明無くして、然るなり。荘子曰く、其の愚を知る者は、大愚に非ずと。此の言却りて是なり。
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『慎思録』巻之一人心多く蔽塞して、偏執有り。是を以て自ら知るに暗し。賢者以下の免れざる所なり。故に古人曰く、人を知る、之を知と謂ひ、自ら知る、之を明と謂ふと。夫れ人を知ることは固より難し。而して自ら知ることを最も難しと為す。是を以て学を為すの方は、須らく己を舎てて人に従ひ、虚にして以て人に受くべし。偏曲の弊無きに庶からん。然らずして固陋執滞し、自ら是として人に取らざれば、則ち道を信ずること篤く、心を操ること堅しと雖も、終に光明正大の道を知ること能はずして、愚昧の帰と為るを免れず。苟も此くの如くんば、則ち豈に特に其の心術を害するのみならんや。抑も亦以て其の政に発し、其の事を害すべし。甚だしいかな偏狭固滞の病為るや。
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