五常訓 / 巻之三・仁之下
一道橋の、通りがたき危き所は、力あらば修理して、道行く人を、心やすく自由に通らしむべし。又途中に、人の足をそこなふべき杙刺などあらば、のぞくべし。其外かやうの心づかひをすべし。是陰德にして、仁愛の道なり。
新字:一道橋の、通りがたき危き所は、力あらば修理して、道行く人を、心やすく自由に通らしむべし。又途中に、人の足をそこなふべき杙刺などあらば、のぞくべし。其外かやうの心づかひをすべし。是陰徳にして、仁愛の道なり。
書き下し
一道橋の、通りがたき危き所は、力あらば修理して、道行く人を、心やすく自由に通らしむべし。又途中に、人の足をそこなふべき杙刺などあらば、のぞくべし。其外かやうの心づかひをすべし。是陰徳にして、仁愛の道なり。
現代語訳
道や橋の、通りにくく危ない所は、力があれば修理して、道行く人を安心して自由に通らせるべきです。また道の途中に、人の足を傷つけそうな杭やとげなどがあれば、取り除くべきです。そのほかこのような心づかいをすべきです。これは陰徳であって、仁愛の道です。
解説
危ない道や橋を直し、道端の杭やとげを取り除くといった、人知れず行う小さな親切を陰徳として勧めています。江戸時代には、篤志家や僧が私財で橋を架けたり道を整えたりすることが善行として尊ばれました。誰にほめられなくても、後から来る人が安全に歩けるように心を配ることは、仁愛の最も身近な形です。道のごみを拾う、危ない物を片付けるといった日常の小さな気配りも、同じ陰徳の実践だといえるでしょう。
この章句が説くこと
陰徳仁公共親切道
関連する章句
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『慎思録』巻之三程子曰く、天地生物の気象は、見るべくして言ふべからず。善く此を観る者は、必ず道を知るなり、と。篤信窃かに謂ふ、易に曰く、天地の大徳を生と曰ふ、と。蓋し天地は別に心無く、別に事無し。独り物を生ずるを以て心と為し、且つ以て事と為すのみ。故に能く天地生物の理の四時に行はれ、万物に著はるるを見て、之を黙識する者有らば、即ち此れ道を知るなり。程子の言信ずべし。天地生物の理、人之を受けて以て心と為す。所謂仁なり。温和慈愛、便ち是れ天地生物の気象なり。
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『童子問』卷上問ふ、伊川先生云ふ、「聖人は未だ嘗て易きを言ひて以て人を驕らしめず、亦未だ嘗て難きを言ひて以て人の進むを阻まず」と。此の語如何。曰く、聖人の言語は、皆其の自然に循ひて、未だ嘗て粃点せず、亦未だ嘗て作弄せず。若し未だ嘗て易きを言はず、亦未だ嘗て難きを言はずと曰はば、則ち是れ聖人言語を以て道を簸弄するなり。語に曰く、「誰か能く出づるに戸に由らざらん。何ぞ斯の道に由ること莫き」と。又曰く、「仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯に仁至る」と。又曰く、「未だ之を思はざるなり。夫れ何の遠きことか之有らん」と。孟子曰く、「道は邇きに在り、而るに諸を遠きに求む。事は易きに在り、而るに諸を難きに求む」と。皆其の近くして易きを言ふなり。学者の其の入り難きに苦しむ者は、皆道の実処を知らざるに由るなり。
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『童子問』卷中問ふ。喩を承く。論語は宇宙第一の書たり、而して仁は孔門第一の字たり、と。然るに大学のごときは、敬を以て要と為し、中庸は誠を以て主と為す。及び詩の思ひ邪無き、書の中、易の時、一書各一書の綱領有り。如何。曰く、人道の仁義有るは、猶ほ天道の陰陽有るがごときなり。仁義を外にして、豈に復た道有らんや。而して仁の義を包むは、猶ほ陽の陰を統ぶるがごとし。故に孔門は仁を以て宗と為し、而して義を以て輔と為す。敬とは此を敬するなり。誠とは此を誠にするなり。詩の思ひ邪無き、書の中、易の時、皆然り。道は本多端無し。故に曰く、吾が道は一以て之を貫く、と。
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『童子問』卷上問ふ、何をか人の外に道無しと謂ふと。曰く、人とは何ぞ。君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟なり、朋友なり。夫れ道は一のみ。君臣に在りては之を義と謂ひ、父子には之を親と謂ひ、夫婦には之を別と謂ひ、昆弟には之を叙と謂ひ、朋友には之を信と謂ふ。皆人に由りて顕はる。人無ければ則ち以て道を見ること無し。故に曰く、人の外に道無しと。何をか道の外に人無しと謂ふ。曰く、道とは何ぞ。仁なり、義なり、礼なり、智なり。人其の中に囿まれて、須臾も離るることを得ず。離るれば則ち人に非ざるなり。故に曰く、道の外に人無しと。凡そ天地の外・古今の遠きを説きて、人倫に資すること無く、天下国家の治に益すること無き者は、皆邪説の魁なり。設令宇宙の外に復た宇宙有りとも、苟も人其の間に生まるること有らば、必ず当に君臣父子夫婦の倫有りて、仁義礼智の道に循ふべし。故に曰く、人に由りて顕はる、人無ければ則ち以て道を見ること無しと。謹んで此の説を聴き、異説の惑はす所と為ること勿かれ。
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『童子問』卷下儒釈の分かるる所以を問ふ。曰く、聖人は天下と共に斯の善を同じくせんと欲して、天下を離れて独り其の身を善くするを欲せず。故に曰く、吾斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にせん、と。釈氏は則ち然らず。其の言に曰く、天上天下、唯我独尊、と。此れ其の先づ聖人と異なる所以なり。蓋し釈氏は天下を離れて独り其の身を善くせんと欲す。故に其の始初功夫を用ふる処、天下に通じ、万世に達し、須臾も離るべからざる上に在らず。専ら其の一身に就きて意見を生じ、生死の念重く、愛根絶ち難く、心猿意馬、羈束を受けず、乍ち出で乍ち入り、或いは真或いは妄、変現起滅して、奈何ともすべき無しと為す。乃ち山林に屏居し、世故を謝絶し、坐禅面壁して、硬く斯の心を澄清するを以て事と為す。其の修行既に久しく、功夫既に成るに及んでは、忽ち天地万物悉く皆幻妄にして、山川城郭総て空相を現じ、独り此の心のみ孤明歴歴として、万劫尽くること無きを見る。自ら三界を超脱すと謂ひ、遂に人事を廃して修めず、天下を蔑して顧みず、顔を抗げ首を揚げ、肆然として道を談ず。
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『童子問』卷上道とは何ぞ。父子に在りては之を親と謂ひ、君臣には之を義と謂ひ、夫婦には之を別と謂ひ、昆弟には之を序と謂ひ、朋友には之を信と謂ふ。天下古今の同じく然る所なり。諸子百家各其の道を以て道と為して、性に循ふと否とを論ぜず。異端為る所以なり。苟も人の性に循ひて、得て離るべからざれば、則ち道と為し、否ざれば則ち道に非ず。故に聖人の道は、性を離れて独立するに非ず、亦た性より出づと謂ふに非ざるなり。晦菴謂ふ、人物各其の性の自然に循へば、則ち日用の間、各当に行ふべきの路有らざること莫しと。是れ倒説なり。蓋し性とは、己に有るを以て言ひ、道とは、天下に達するを以て言ふ。易に曰く、人の道を立つ、曰く仁と義と、是れなり。故に人有れば則ち性有り、人無ければ則ち性無し。道とは、人有ると人無きとを待たず、本来自ら有るの物にして、天地に満ち、人倫に徹し、時として然らざること無く、処として在らざること無し。豈に人物各其の性の自然に循ふことを待ちて、而る後に之有りと謂ふを容れんや。晦菴の所謂の若きは、則ち是れ性本にして道末、性先にして道後なり。豈に倒説に非ずや。
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