五常訓 / 巻之二・仁之上
一仁恕公私の別をいはゞ、人我をへだてず、私なきは、公なり。公にして、愛の理行はるゝは仁也。私ありて、人我をへだて、愛の理行はれざるは、不仁なり。人我の私を去りて、公にする工夫は、恕なり。恕は私を去り、公にして愛の理行はる。是仁なり。公を卽仁とは云ふべからず。恕すれば人我のへだてなくして、公なり。公なれば愛行はる。是仁なり。恕は仁を行ふ工夫なり。愛は仁のほどこし也。たとへば仁は河水の流れ行て、とゞこほらざるが如し。私は土石の河水をふさぐが如し。不仁は河水の、土石にへだてられて、ふさがりて流れざるが如し。恕を以て人我の私を去るは、たとへば川に土石のふさがれるを、鋤鍬などを以て、掘り通すが如し。ほり通せば、水とゞこほらずして流れゆく。公は土石のふさがり無きが如し。愛は水の流れゆきて、よく物をうるほすが如し。私あれば不仁なり。恕すれば公なり。公なれば愛行はれて、仁の道たつ。此たとへを以て、仁恕愛公私の別を知るべし。
新字:一仁恕公私の別をいはゞ、人我をへだてず、私なきは、公なり。公にして、愛の理行はるゝは仁也。私ありて、人我をへだて、愛の理行はれざるは、不仁なり。人我の私を去りて、公にする工夫は、恕なり。恕は私を去り、公にして愛の理行はる。是仁なり。公を即仁とは云ふべからず。恕すれば人我のへだてなくして、公なり。公なれば愛行はる。是仁なり。恕は仁を行ふ工夫なり。愛は仁のほどこし也。たとへば仁は河水の流れ行て、とゞこほらざるが如し。私は土石の河水をふさぐが如し。不仁は河水の、土石にへだてられて、ふさがりて流れざるが如し。恕を以て人我の私を去るは、たとへば川に土石のふさがれるを、鋤鍬などを以て、掘り通すが如し。ほり通せば、水とゞこほらずして流れゆく。公は土石のふさがり無きが如し。愛は水の流れゆきて、よく物をうるほすが如し。私あれば不仁なり。恕すれば公なり。公なれば愛行はれて、仁の道たつ。此たとへを以て、仁恕愛公私の別を知るべし。
書き下し
一仁恕公私の別をいはば、人我をへだてず、私なきは、公なり。公にして、愛の理行はるるは仁也。私ありて、人我をへだて、愛の理行はれざるは、不仁なり。人我の私を去りて、公にする工夫は、恕なり。恕は私を去り、公にして愛の理行はる。是仁なり。公を即仁とは云ふべからず。恕すれば人我のへだてなくして、公なり。公なれば愛行はる。是仁なり。恕は仁を行ふ工夫なり。愛は仁のほどこし也。たとへば仁は河水の流れ行て、とどこほらざるが如し。私は土石の河水をふさぐが如し。不仁は河水の、土石にへだてられて、ふさがりて流れざるが如し。恕を以て人我の私を去るは、たとへば川に土石のふさがれるを、鋤鍬などを以て、掘り通すが如し。ほり通せば、水とどこほらずして流れゆく。公は土石のふさがり無きが如し。愛は水の流れゆきて、よく物をうるほすが如し。私あれば不仁なり。恕すれば公なり。公なれば愛行はれて、仁の道たつ。此たとへを以て、仁恕愛公私の別を知るべし。
現代語訳
仁・恕・公・私の区別をいえば、人と自分を隔てず、私がないのが公です。公であって愛の理が行われるのが仁です。私があって人と自分を隔て、愛の理が行われないのが不仁です。人と自分を隔てる私を去って公にする工夫が恕です。恕は私を去り、公にして愛の理が行われます。これが仁です。公をそのまま仁とはいえません。恕すれば人と自分の隔てがなくなって公です。公であれば愛が行われます。これが仁です。恕は仁を行う工夫です。愛は仁の施しです。たとえば仁は川の水が流れて行って、とどこおらないようなものです。私は土や石が川の水をふさぐようなものです。不仁は川の水が土や石に隔てられて、ふさがって流れないようなものです。恕によって人と自分を隔てる私を去るのは、たとえば川が土や石でふさがれているのを、鋤や鍬などで掘り通すようなものです。掘り通せば、水はとどこおらずに流れて行きます。公は土や石のふさがりがないようなものです。愛は水が流れて行って、よく物をうるおすようなものです。私があれば不仁です。恕すれば公です。公であれば愛が行われて、仁の道が立ちます。このたとえによって、仁・恕・愛・公・私の区別を知るべきです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『五常訓』巻之二・仁之上故に人にまじはりては、あはれみの心自ら止む事なし。されども其中につきて、まづ父母を愛し、次に兄弟一族を愛するが、仁愛の内にていと大なる理なり。故に親をしたしむを大なりとすといへり。親とは親類なり。先親類をしたしみて後、他人を愛す。是仁を行ふ次第なり。人なりと説き、人の心也と説ける字訓、尤親切にして、仁の理によくかなへるなるべし。周子は徳愛を仁と云ふといへり。愛はあはれむ也。仁は心の徳にて、人をあはれむを云ふ。愛を以て仁を説くは、是仁の大用を説けり。仁の用をなすは、あはれみを人に施すにあり。故に愛を仁と云ふ。夫仁は性なり。性は心に生れつきたる、理なり、体なり。愛は情なり。情とは、性の外物に感じて、動きあらはれたる心を云ふ。
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『慎思録』巻之六人、奴僕を使ふの道に於いて、往往心を用ゐず、常に忽略す。夫れ仁者は愛せざること無し。況んや我が僮僕に於いてをや。今日用至近の事を察せざるは、何ぞ思はざるの甚だしきや。此れ之を其の賤悪する所に辟すと謂ふべし。陶淵明、一力を送りて其の子に給する書に曰く、此れも亦人の子なり、善く之を遇すべしと。此の言以て法と為すべし。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らずしかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とはほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は「己の欲せざる所を人に施すなかれ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致すと言える言のごとく、この二者も終局の目的はついに一致するものであろうと考える。
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『近思録』巻1 道体復の卦に「七日にして来復す」と言ふが如き、其の間元より断続せず、陽已に復生す。「物極まれば必ず返る」。其の理須らく此の如くなるべし。生有れば便ち死有り、始め有れば便ち終はり有り。明道先生曰く、天地の間、只だ一箇の感と応と有るのみ。更に甚(なん)の事か有らん。仁を問ふ。伊川先生曰く、此れ諸公自ら之を思ふに在り。聖賢の仁を言ふ所の処を将て、類聚して之を観、体認し出だし来たれ。孟子曰く、「惻隠の心は仁なり」と。後人遂に愛を以て仁と為す。愛は自ら是れ情、仁は自ら是れ性、豈に専ら愛を以て仁と為すべけんや。孟子言ふ、「惻隠の心は仁の端なり」と。既に仁の端と曰へば、則ち便ち之を仁と謂ふべからず。退之言ふ、「博愛之を仁と謂ふ」と、非なり。仁者は固より博愛なり、然れども便ち博愛を以て仁と為すは則ち不可なり。仁と心と何ぞ異なると問ふ。曰く、心は譬へば穀種の如し。生の性は、便ち是れ仁なり。陽気の発する処は、乃ち情なり。義は宜と訓じ、礼は別と訓ず、仁は当に何と訓ずべき。説く者覚と訓じ人と訓ずと謂ふも、皆非なり。当に孔孟の仁を言ふ処を合はせて、大概之を研窮すべし、二三歳にして之を得るも未だ晩からざるなり。
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論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。
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『五常訓』巻之二・仁之上用なり。愛は仁の性の用にあらはれたるなり。体は見えがたければ、あらはれたる用を以て説けり。愛を以て仁を説くは、是用につきて体を示すなり。程子は天地の生意を以て、仁を説けり。生意とは、天地の理生々して物を生ずる意を云ふ。其生意の、人に生れつきたるを仁と云ふ。天にありては生と云ひ、又元と云ふ。人にうけては仁と云ふ。天にあり、人にありて、其名は変れども、其理は一なり。此心に生れつきたる生理内にありて、いまだ外にあらはれざるを仁とす。既にあらはれては情となりて、物にほどこすを愛と云ふ。愛のはじめておこれる、其きざしの端を惻隠の心と云ふ。仁と愛と一理なれど、性情体用の別あり。用を指して体とすべからず。情を指して性とすべからず。
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