五常訓 / 巻之二・仁之上
一仁は德の名なり。恕は仁を行ふ工夫なり。德の名にはあらず。工夫とは、つとめのしわざを云ふ。世俗に、思案するを工夫といへど、左にはあらず。思案も其内の一なり。仁に至らんとならば、恕を行ふにあり。仁は愛の理也。恕は人我の私を去て、愛を人に施す工夫なり。仁はたとへば筆なり。愛はたとへば筆より書出す文字也。恕は筆を手にとりて、物かくが如し。仁は體なり。愛は用也。恕は仁を行ふつとめ也。恕なれば私なく公にして、仁の理行はれて、愛のほどこし廣し。恕なければ、仁心あれども愛の理行はれず。故に仁愛を行はんとならば、恕をもつぱら務むべし。夫つとめずして愛の理行はるゝは、仁者の事也。賢人以下は、人我の私あるゆゑ、恕を以て私を去りて、仁を行ふべし。
新字:一仁は徳の名なり。恕は仁を行ふ工夫なり。徳の名にはあらず。工夫とは、つとめのしわざを云ふ。世俗に、思案するを工夫といへど、左にはあらず。思案も其内の一なり。仁に至らんとならば、恕を行ふにあり。仁は愛の理也。恕は人我の私を去て、愛を人に施す工夫なり。仁はたとへば筆なり。愛はたとへば筆より書出す文字也。恕は筆を手にとりて、物かくが如し。仁は体なり。愛は用也。恕は仁を行ふつとめ也。恕なれば私なく公にして、仁の理行はれて、愛のほどこし広し。恕なければ、仁心あれども愛の理行はれず。故に仁愛を行はんとならば、恕をもつぱら務むべし。夫つとめずして愛の理行はるゝは、仁者の事也。賢人以下は、人我の私あるゆゑ、恕を以て私を去りて、仁を行ふべし。
書き下し
一仁は徳の名なり。恕は仁を行ふ工夫なり。徳の名にはあらず。工夫とは、つとめのしわざを云ふ。世俗に、思案するを工夫といへど、左にはあらず。思案も其内の一なり。仁に至らんとならば、恕を行ふにあり。仁は愛の理也。恕は人我の私を去て、愛を人に施す工夫なり。仁はたとへば筆なり。愛はたとへば筆より書出す文字也。恕は筆を手にとりて、物かくが如し。仁は体なり。愛は用也。恕は仁を行ふつとめ也。恕なれば私なく公にして、仁の理行はれて、愛のほどこし広し。恕なければ、仁心あれども愛の理行はれず。故に仁愛を行はんとならば、恕をもつぱら務むべし。夫つとめずして愛の理行はるるは、仁者の事也。賢人以下は、人我の私あるゆゑ、恕を以て私を去りて、仁を行ふべし。
現代語訳
仁は徳の名です。恕は仁を行う工夫です。徳の名ではありません。工夫とは、努めて行うしわざをいいます。世間では思案することを工夫といいますが、そうではありません。思案もその中の一つです。仁に至ろうとするならば、恕を行うことにあります。仁は愛の理です。恕は人と自分を隔てる私を去って、愛を人に施す工夫です。仁はたとえば筆です。愛はたとえば筆から書き出す文字です。恕は筆を手に取って物を書くようなものです。仁は本体です。愛は働きです。恕は仁を行う努めです。恕であれば私がなく公であって、仁の理が行われて、愛の施しが広くなります。恕がなければ、仁の心があっても愛の理は行われません。ゆえに仁愛を行おうとするならば、恕をもっぱら務めるべきです。そもそも努めずに愛の理が行われるのは、仁者のことです。賢人より下の人は、人と自分を隔てる私があるので、恕によって私を去って、仁を行うべきです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『五常訓』巻之二・仁之上故に人にまじはりては、あはれみの心自ら止む事なし。されども其中につきて、まづ父母を愛し、次に兄弟一族を愛するが、仁愛の内にていと大なる理なり。故に親をしたしむを大なりとすといへり。親とは親類なり。先親類をしたしみて後、他人を愛す。是仁を行ふ次第なり。人なりと説き、人の心也と説ける字訓、尤親切にして、仁の理によくかなへるなるべし。周子は徳愛を仁と云ふといへり。愛はあはれむ也。仁は心の徳にて、人をあはれむを云ふ。愛を以て仁を説くは、是仁の大用を説けり。仁の用をなすは、あはれみを人に施すにあり。故に愛を仁と云ふ。夫仁は性なり。性は心に生れつきたる、理なり、体なり。愛は情なり。情とは、性の外物に感じて、動きあらはれたる心を云ふ。
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『慎思録』巻之六人、奴僕を使ふの道に於いて、往往心を用ゐず、常に忽略す。夫れ仁者は愛せざること無し。況んや我が僮僕に於いてをや。今日用至近の事を察せざるは、何ぞ思はざるの甚だしきや。此れ之を其の賤悪する所に辟すと謂ふべし。陶淵明、一力を送りて其の子に給する書に曰く、此れも亦人の子なり、善く之を遇すべしと。此の言以て法と為すべし。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らずしかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とはほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は「己の欲せざる所を人に施すなかれ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致すと言える言のごとく、この二者も終局の目的はついに一致するものであろうと考える。
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『近思録』巻1 道体復の卦に「七日にして来復す」と言ふが如き、其の間元より断続せず、陽已に復生す。「物極まれば必ず返る」。其の理須らく此の如くなるべし。生有れば便ち死有り、始め有れば便ち終はり有り。明道先生曰く、天地の間、只だ一箇の感と応と有るのみ。更に甚(なん)の事か有らん。仁を問ふ。伊川先生曰く、此れ諸公自ら之を思ふに在り。聖賢の仁を言ふ所の処を将て、類聚して之を観、体認し出だし来たれ。孟子曰く、「惻隠の心は仁なり」と。後人遂に愛を以て仁と為す。愛は自ら是れ情、仁は自ら是れ性、豈に専ら愛を以て仁と為すべけんや。孟子言ふ、「惻隠の心は仁の端なり」と。既に仁の端と曰へば、則ち便ち之を仁と謂ふべからず。退之言ふ、「博愛之を仁と謂ふ」と、非なり。仁者は固より博愛なり、然れども便ち博愛を以て仁と為すは則ち不可なり。仁と心と何ぞ異なると問ふ。曰く、心は譬へば穀種の如し。生の性は、便ち是れ仁なり。陽気の発する処は、乃ち情なり。義は宜と訓じ、礼は別と訓ず、仁は当に何と訓ずべき。説く者覚と訓じ人と訓ずと謂ふも、皆非なり。当に孔孟の仁を言ふ処を合はせて、大概之を研窮すべし、二三歳にして之を得るも未だ晩からざるなり。
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論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。
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『五常訓』巻之二・仁之上用なり。愛は仁の性の用にあらはれたるなり。体は見えがたければ、あらはれたる用を以て説けり。愛を以て仁を説くは、是用につきて体を示すなり。程子は天地の生意を以て、仁を説けり。生意とは、天地の理生々して物を生ずる意を云ふ。其生意の、人に生れつきたるを仁と云ふ。天にありては生と云ひ、又元と云ふ。人にうけては仁と云ふ。天にあり、人にありて、其名は変れども、其理は一なり。此心に生れつきたる生理内にありて、いまだ外にあらはれざるを仁とす。既にあらはれては情となりて、物にほどこすを愛と云ふ。愛のはじめておこれる、其きざしの端を惻隠の心と云ふ。仁と愛と一理なれど、性情体用の別あり。用を指して体とすべからず。情を指して性とすべからず。
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