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五常訓 / 巻之一・総論

一凡人たるもの、必此四德あるは、たとへば身に頭身手足の四體あるが如し。此四德ありながら、道を行ふ事ならずといふは、たとへば手足はありながら、物をとり地をふむ事ならずと云ふが如し。是を自暴自棄と云ふ。自暴とは、みづからそこなふと訓む。我が身に此天性あることを知らで、禮義をそしりて行はず。是天性を自らそこなふなり。剛惡の人なり。自棄とは、みづからすつると訓む。仁義の道を善きとは思ひながら、行ふ事ならずとて行はぬ、是我にある天性を、自らすつるなり。柔惡の人なり。此二種の人は、わが天性を自らやぶりすつる故に、道に入りがたし。もし自暴自棄の惡なくんば、學んで此道を得ずと云ふことなし。如何となれば、人の性本善なり。學問の道は、外に求めずして我に求むる故、得ざることなし。

新字:一凡人たるもの、必此四徳あるは、たとへば身に頭身手足の四体あるが如し。此四徳ありながら、道を行ふ事ならずといふは、たとへば手足はありながら、物をとり地をふむ事ならずと云ふが如し。是を自暴自棄と云ふ。自暴とは、みづからそこなふと訓む。我が身に此天性あることを知らで、礼義をそしりて行はず。是天性を自らそこなふなり。剛悪の人なり。自棄とは、みづからすつると訓む。仁義の道を善きとは思ひながら、行ふ事ならずとて行はぬ、是我にある天性を、自らすつるなり。柔悪の人なり。此二種の人は、わが天性を自らやぶりすつる故に、道に入りがたし。もし自暴自棄の悪なくんば、学んで此道を得ずと云ふことなし。如何となれば、人の性本善なり。学問の道は、外に求めずして我に求むる故、得ざることなし。

書き下し

一凡人たるもの、必此四徳あるは、たとへば身に頭身手足の四体あるが如し。此四徳ありながら、道を行ふ事ならずといふは、たとへば手足はありながら、物をとり地をふむ事ならずと云ふが如し。是を自暴自棄と云ふ。自暴とは、みづからそこなふと訓む。我が身に此天性あることを知らで、礼義をそしりて行はず。是天性を自らそこなふなり。剛悪の人なり。自棄とは、みづからすつると訓む。仁義の道を善きとは思ひながら、行ふ事ならずとて行はぬ、是我にある天性を、自らすつるなり。柔悪の人なり。此二種の人は、わが天性を自らやぶりすつる故に、道に入りがたし。もし自暴自棄の悪なくんば、学んで此道を得ずと云ふことなし。如何となれば、人の性本善なり。学問の道は、外に求めずして我に求むる故、得ざることなし。

現代語訳

およそ人である者に必ずこの四徳があるのは、たとえば体に頭・胴・手・足の四体があるようなものです。この四徳がありながら、道を行うことができないというのは、たとえば手足がありながら、物を取り地を踏むことができないというようなものです。これを自暴自棄といいます。自暴とは「みずからそこなう」と訓読みします。自分の身にこの天性があることを知らずに、礼義をそしって行いません。これは天性を自分でそこなうことです。剛悪の人です。自棄とは「みずからすつる」と訓読みします。仁義の道を善いとは思いながら、行うことができないといって行わないのは、自分にある天性を自分で捨てることです。柔悪の人です。この二種の人は、自分の天性を自分で破り捨てるので、道に入りにくいのです。もし自暴自棄の悪がなければ、学んでこの道を得られないということはありません。なぜなら、人の性はもともと善だからです。学問の道は、外に求めずに自分に求めるので、得られないことはありません。

解説

『孟子』離婁上の「自ら暴ふ者は与に言ふ有るべからず、自ら棄つる者は与に為す有るべからず」を、剛悪と柔悪の二つの型として説明しています。礼義をそしる強がりの自暴と、善いとわかっていても自分には無理だとあきらめる自棄の区別は鋭い観察です。四徳を手足にたとえ、持っているのに使わないのと同じだと言う比喩もわかりやすいものです。「どうせできない」と最初から諦める態度こそが成長の最大の妨げだという指摘は、学ぶ子どもや新人を励ますときにも役立ちます。

この章句が説くこと

自暴自棄四徳性善学問仁義

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