五行大義 / 第二十三論諸人・第一論人配五行
聖人者。以目視。以耳聽。以口言。以足行。真人者。不視而明。不聽而聰。不言而云。不行而從。故聖人之所動天下者。真人未嘗遇焉。賢人之所矯世俗者。聖人未嘗觀焉。所謂道人者。無前無後。無左無右。萬物玄同。無非無是。文子發言二十五人。論止有四。未爲具釋。今依諸經書略解。上五有謂人者。孔子曰。陰陽不測之謂神。曾子曰。陽之精氣爲神。神以靈智爲義。謂靈智其照如神。故曰神人也。孔子曰。堯之智如神。真人者。性合乎道。有若無。實若虛。明白太素。至極弊然無爲。故曰真人。道人者。孔子曰。其德大乎天地。其量總乎日月。莫之能測者。有此德量。故曰道人。至人者。真直爲素。守一不移。善惡不能迴其慮。榮辱不能動其心。故曰至人。聖人者。家語曰。德合天地。變通無方。窮萬事之終始。協萬品之自然。敷其大道。遂成情性。明竝日月。化行若神。民人不知其德。覩者不識其善。此謂聖人也。
新字:聖人者。以目視。以耳聴。以口言。以足行。真人者。不視而明。不聴而聰。不言而云。不行而従。故聖人之所動天下者。真人未嘗遇焉。賢人之所矯世俗者。聖人未嘗観焉。所謂道人者。無前無後。無左無右。万物玄同。無非無是。文子発言二十五人。論止有四。未為具釈。今依諸経書略解。上五有謂人者。孔子曰。陰陽不測之謂神。曽子曰。陽之精気為神。神以霊智為義。謂霊智其照如神。故曰神人也。孔子曰。堯之智如神。真人者。性合乎道。有若無。実若虚。明白太素。至極弊然無為。故曰真人。道人者。孔子曰。其徳大乎天地。其量総乎日月。莫之能測者。有此徳量。故曰道人。至人者。真直為素。守一不移。善悪不能迴其慮。栄辱不能動其心。故曰至人。聖人者。家語曰。徳合天地。変通無方。窮万事之終始。協万品之自然。敷其大道。遂成情性。明並日月。化行若神。民人不知其徳。睹者不識其善。此謂聖人也。
書き下し
聖人は、目を以て視、耳を以て聴き、口を以て言い、足を以て行く。真人は、視ずして明らかに、聴かずして聡(さと)く、言わずして云い、行かずして従う。故に聖人の天下を動かす所の者は、真人未だ嘗て遇わず。賢人の世俗を矯(た)むる所の者は、聖人未だ嘗て観ず。所謂道人は、前無く後無く、左無く右無く、万物玄同して、非無く是無し、と。文子は二十五人を発言するも、論ずるは止(た)だ四有るのみにして、未だ具(つぶさ)に釈すと為さず。今諸経書に依りて略解す。上五に神人と謂う有るは、孔子曰く、陰陽測られざる、之を神と謂う、と。曾子曰く、陽の精気を神と為す、と。神は霊智を以て義と為す。霊智その照らすこと神の如きを謂う、故に神人と曰うなり。孔子曰く、堯の智は神の如し、と。真人は、性道に合い、有れども無きが若く、実つれども虚しきが若く、明白太素にして、至極弊然として無為なり。故に真人と曰う。道人は、孔子曰く、その徳は天地より大に、その量は日月を総(す)ぶ、之を能く測る莫き者なり、と。此の徳量有り、故に道人と曰う。至人は、真直を素と為し、一を守りて移らず、善悪もその慮(おもんぱか)りを迴(めぐ)らすこと能わず、栄辱もその心を動かすこと能わず。故に至人と曰う。聖人は、『家語』に曰く、徳天地に合い、変通方無く、万事の終始を窮め、万品の自然に協(かな)い、その大道を敷きて、遂に情性を成す。明日月に並び、化行わるること神の若し。民人その徳を知らず、覩(み)る者その善を識らず。此れを聖人と謂うなり、と。
現代語訳
(『文子』の続き)聖人は、目で見、耳で聞き、口で言い、足で行く。真人は、見なくても明らかに知り、聞かなくても聡く、言わなくても語り、行かなくても人が従う。だから聖人が天下を動かすようなことに、真人は一度もかかわったことがない。賢人が世の風俗を正そうとするようなことを、聖人は一度も気にかけたことがない。いわゆる道人とは、前も後ろもなく、左も右もなく、万物と奥深く一体になって、否定もなく肯定もない者である、と。文子は二十五種の人を挙げながら、説明しているのは四つだけで、詳しく解き明かしてはいない。そこで今、諸々の経書によってあらまし解説する。上の五にある神人とは何か。孔子は言う、陰陽のはかり知れないはたらき、これを神という、と。曾子は言う、陽の精気が神である、と。神とは霊妙な知恵を本義とする。霊妙な知恵が照らし出すさまが神のようであることをいう。だから神人という。孔子は言う、堯の知恵は神のようであった、と。真人とは、本性が道にかない、持っていても無いかのようで、満ちていても空であるかのようで、明るく清らかで根源の素朴さを保ち、きわみにおいてはゆったりと何もしない。だから真人という。道人とは、孔子の言うように、その徳は天地より大きく、その度量は日月をも包み、誰もはかることのできない者である。この徳と度量があるので道人という。至人とは、まっすぐな誠を本とし、一つを守って移ろわず、善も悪もその思いを揺るがすことができず、栄誉も恥辱もその心を動かすことができない。だから至人という。聖人とは、『孔子家語』の言うとおり、徳が天地にかない、変化に通じて決まった型がなく、あらゆる事の始まりと終わりを究め、万物のおのずからなるありように合い、大いなる道を行き渡らせて、ついに人々の本性を成就させる。その明るさは日月に並び、教化の行きわたるさまは神のようである。民はその徳を知らず、目にする者もその善に気づかない。これを聖人という、と。
解説
この章句が説くこと
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五行大義・第二十三論諸人・第一論人配五行『荘子』に曰く、天を以て宗と為し、徳を以て本と為し、道を以て門と為し、変に明らかなる、之を聖人と謂う、と。次五の徳人は、徳物に被(およ)び、百姓をして各おのその欲する所を得しめ、日に用いて知らず、兼ねて利して択ぶ無く、天地と合す。『易』に曰く、大人は天地とその徳を合わせ、日月とその明を合わせ、鬼神とその吉凶を合わす、と。此れを徳と謂うなり。賢人は、智万物に周(あまね)く、動静理に合う。孔子曰く、好悪は民と情を同じくし、取捨は民と統を同じくし、行いは規矩に中(あた)り、言は法則とすべし。匹夫と為りて怨みず、諸侯に在りて驕らず。道は百姓を化するに足りて、身を傷つけず。財を天下に施して貧しからず。此れ賢人なり、と。善人は、善を見ては及ばざるが如くし、言天下に満ちて口過無し。孔子曰く、躬(み)ずから忠信を行いて心怨みず、仁義を置かず、志意広博にして色伐(ほこ)らず、思慮明達にして辞争わず、篤く行い道を信じ、自ら強めて息(や)まず、猶然として将に越ゆべきが如くにして及ぶべからず。此れ君子人なり、と。又た善人と謂う。中人は、一心以て主に事え、進んでは忠を尽くさんことを思い、退いては過ちを補わんことを思い、美に順い悪を匡(ただ)し、犯して隠すこと無く、公を先にして私を後にし、その労を伐らず。此れ中人なり。辨人は、智思窮まり無く、情は善悪を鑒(かんが)み、問うに礙滞(がいたい)無く、巧言流るるが如く、邪を去りて正に従い、匿(かく)すべき有ること無し。此れ辨人なり。中五の仁人は、上と為りてはその功を侈(おご)らず、下と為りてはその陋を羞じず、慈施惻隠(そくいん)して、終わりまで衰えず。此れ仁人なり。
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五行大義・第二十三論諸人・第一論人配五行小人は、卑鄙(ひひ)にして悪を行う。此れを小人と曰う。孔子曰く、桀紂(けっちゅう)は帝王と雖も、其れ猶お小人のごときなり、と。文子曰く、縄に中(あた)る、之を君子と謂い、縄に中らざる、之を小人と謂う。君子は死すと雖もその名滅びず、小人は勢を得と雖もその罪除かれず、と。駑人は、駑は鈍なり。亦た罪隷を名と為す。古は罪有れば奴と為す。『尚書』に曰く、予(われ)則ち汝を奴戮せん、と。之を罪するなり。紂は箕子を以て奴と為す、亦た戮辱なり。馬に駑なる者有るは、その鈍なるを以てなり。愚人は、嚚闇(ぎんあん)にして知無く、菽麦(しゅくばく)をも弁ぜず、之を愚人と謂う。孔子曰く、その知は及ぶべきも、その愚は及ぶべからず、とは、その昏濁の気を稟けて生まるるを以てにして、学びて得る所に非ざるなり。亦た庸人と曰う。孔子曰く、心に始終の規を存せず、口に訓格の言を吐かず、又た賢を択びて以て身を託せず、力行して以て自ら定めず、小を見て大に闇く、傷つく所を知らず、物に従うこと流るるが如くして、仇とする所を知らず。此れ庸人なり、と。肉人は、狂癡にして識無く、痛痒も分かつ莫し。能く動静すと雖も、完と異ならず。是を肉人と謂う。此の二十五等の人は、五行の気を稟くるに由りて、各おの優劣有り、故に多等有りて、善悪同じからず。今且(しばら)く分かちて四品と為す。その神・真・道・至・聖・徳・賢の七者は、王気を受けて生まるるなり。善・中・辨・仁・礼・信・義・智の八者は、相気にして生まるるなり。士・庶・農・商・工の五者は、休気にして生まるるなり。衆・小・駑・愚・完の五者は、囚気にして生まるるなり。
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五行大義・第二十三論諸人・第一論人配五行王気はその盛んなる時に当たる、故に最も霊聖なり。相気は王に微(すこ)しく劣る、故に善・忠より已下(いか)は王政に伏す。休気は已に衰う、故に仕・庶の例に当たる。囚気は最も劣る、故に衆・小の流に当たる。文子の上を以て下に返し、人を喩えて畜に比するも、亦た之に近し。然れども此の五気は、清有り濁有り、正有り邪有り、初有り末有り。若し正気を得れば、卑劣に在りと雖も、方(まさ)に大善と為る。若し卑気を受くれば、尊勝に居ると雖も、衆(おお)く大悪を興す。桀の夏宗を覆し、紂の殷族を亡ぼし、周の幽・厲に衰え、漢の桓・霊に滅ぶが如きに至りては、此れ則ち尊に処りて悪を興す者なり。鼎を殷廟に負い、釣を磻渓(はんけい)に垂れ、南陽に商賈し、車下に牛を飼う。此の時に当たりては、その善未だ見(あら)われず。師輔に登るに及びて、仁聖並び彰(あら)わる。此れ豈に卑下にして能く宏済(こうさい)するに非ずや。その賢徳已上は、気正しくして邪無し、故に最上に居る。然れども気の初なるは、齢歯終に長く、気の末なるは、命相短促なり。此の四気に又た四別有り。若し上にして清秀なれば、霊智愈いよ高し。上にして濁汚なれば、乃ち須らく修飭(しゅうちょく)すべし。下にして清秀なれば、琢磨して方に以て器と為る。之に昏濁を加うれば、朽木は復た雕るべからず。貴賤・富貧・好醜・善悪・性情・年命を兼ぬれば、乃ち万途有り、並びに五行の気の感ずる所の致すなり。今且く文子に就きてその二十五等を論じ、以て階差と為す。自外(これよりほか)の諸徒は、具さに弁じ難し。人を知るは則ち哲なり、惟(こ)れ帝も其れ之を難しとす。明聖なる者に非ざれば、孰(たれ)か能く弁識せん。『禄命決』に云う、
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五行大義・第二十三論諸人・第一論人配五行礼人は、尊卑を分別し、廉譲謙謹にして、上と為りては恭敬し、下と為りては敬を思う。此れ礼人なり。信人は、誠実にして欺かず、片言にして獄を折(さだ)め、達して意を肆(ほしいまま)にせず、窮して操を易(か)えず。此れ信人なり。義人は、決断分了にして、一度理に順い、善に従い悪を屏(しりぞ)け、事礙滞無し。此れ義人なり。智人は、識達し謀慮し、物情を鑒察(かんさつ)し、能く萌兆を知り、豫(あらかじ)め善悪を覩る。此れ智人なり。次五の士人は、孔子曰く、知は多を挙げず、必ずその由る所を審らかにす。言は多を務めず、必ずその謂う所を審らかにす。心に定まる所有り、計に守る所有り。道術の本を尽くすこと能わずと雖も、必ず従い行う有るなり。百善の美を遍くすること能わずと雖も、必ず慮る所有るなり。行い既に之に由り、智既に之を知り、言既に之を得れば、則ち性命形骸の易えざるがごとし。富貴も以て益すに足らず、貧賤も以て損なうに足らず。此れ士人なり、と。庶人は、未だ仕位に入らず、猶お壟畝(ろうほ)の間に居り、或いは始めて褐(かつ)を解くも、未だ品命に沾(うるお)わざるものなり。『周礼』に云う、庶人の官に在る者は始めて秩に入る、と。此れを庶人と謂うなり。農人は、天の道を用い、地の利に因り、春に耕し秋に収め、常に稼穡(かしょく)に在り。此れを農人と曰うなり。商人は、市𨞬(しかん)に負販し、時に随いて貨を鬵(ひさ)ぎ、貴賤相易えて、以て産業を資(たす)く。此れ商人なり。亦た賈人(こじん)と曰うなり。工人は、雕斵(ちょうたく)伎巧して、諸もろの器用を備え、新しきを造り故(ふる)きを修め、力を以て財に貨(か)う。此れを工人と曰う。下五の衆人は、凡そ雑なるを衆人と云う。予譲曰く、范・中行氏は衆人を以て我を遇す、と。
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荘子・天下宗を離れざる、之を天人と謂う。精を離れざる、之を神人と謂う。真を離れざる、之を至人と謂う。天を以て宗と為し、徳を以て本と為し、道を以て門と為し、変化に兆(きざ)す、之を聖人と謂う。仁を以て恩と為し、義を以て理と為し、礼を以て行と為し、楽を以て和と為し、薫然として慈仁なる、之を君子と謂う。法を以て分と為し、名を以て表と為し、参を以て験と為し、稽を以て決と為す。其の数は一二三四是れなり。百官は此を以て相齒(あいよそお)い、事を以て常と為し、衣食を以て主と為し、蕃息(はんそく)畜蔵し、老弱孤寡(ころうこか)を意と為し、皆な以て養う有るは、民の理なり。
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孔子家語・五儀解公曰く、「何をか聖人と謂う。」孔子曰く、「所謂聖なる者は、徳天地に合し、変通方無し。万事の終始を窮め、庶品の自然に協う。其の大道を敷きて、遂に情性を成す。明は日月に並び、化は行いて神の若し。下民其の徳を知らず、睹る者其の鄰を識らず。此を聖人と謂うなり。」
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