言志四録 / 言志耋録 第三百三十八条 未生の我を覓む
臨歿工夫。宜一念覓未生之我。原始反終。知死生之說。是也。
新字:臨歿工夫。宜一念覓未生之我。原始反終。知死生之説。是也。
書き下し
歿するに臨むの工夫は、宜しく一念、未生の我を覓むべし。「始めを原ねて終りに反る、故に死生の説を知る」とは、是れなり。
現代語訳
死に臨んでの心の工夫は、ひたすら、まだ生まれる前の自分を探し求めることである。『易』に「始めをたずねて終わりに立ち返る、だから死生の道理がわかる」とあるのは、このことである。
解説
死に臨んでの工夫として、「未生の我」、すなわち生まれる前の自分を探し求めよと説く一条です。前条の「我の我たる所以は死生の外に在り」を受けています。引かれているのは『易』繋辞上伝の「始めを原ねて終りに反る、故に死生の説を知る」で、物事の始まりを突き詰めれば終わりもわかる、生まれる前を知れば死後もわかるという意味です。禅の「父母未生以前の本来の面目」という語を思わせますが、一斎はそれを易の言葉で儒学の文脈に置き直しています。終わりを考えるには始まりに立ち返れという発想は、事業や組織の行く末に迷ったとき、そもそもの出発点を問い直す手がかりにもなるでしょう。
この章句が説くこと
死生易本来の自己工夫
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