言志四録 / 言志耋録 第二百五十二条 人臣も上情に通ずべし
爲人君者。宜通下情。固也。爲人臣者。亦宜通上情。不則諫諍不的。
新字:為人君者。宜通下情。固也。為人臣者。亦宜通上情。不則諫諍不的。
書き下し
人君為る者は、宜しく下情に通ずべきこと、固よりなり。人臣為る者も、亦宜しく上情に通ずべし。不ずんば則ち諫諍的ならず。
現代語訳
君主たる者が下々の事情に通じていなければならないのは、言うまでもない。臣下たる者もまた、上の事情に通じていなければならない。そうでなければ、諫言が的を外れてしまう。
解説
下情に通じることが君主の務めなら、上情に通じることは臣下の務めだと説いた一条です。上に立つ者が現場の実情を知るべきだという議論はよくありますが、一斎はその裏側を指摘します。臣下が主君の置かれた立場や考え、抱えている事情を知らないまま諫めても、その言葉は的を外れ、聞き入れられない。上の事情を知ることは、へつらうためではなく、正しく諫めるためだというのです。一斎自身、岩村藩の家老の家に生まれ、藩主の子の近侍を務めた経験を持つ人でした。上司に意見を言うとき、相手の立場や制約を理解したうえで伝えているかを振り返る材料になります。
この章句が説くこと
諫言上下君臣情報為政
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