言志四録 / 言志晩録 第二百二十七条 真孝は孝を忘る
眞孝忘孝。念念是孝。眞忠忘忠。念念是忠。
新字:真孝忘孝。念念是孝。真忠忘忠。念念是忠。
書き下し
真孝は孝を忘る、念念是れ孝なり。真忠は忠を忘る、念念是れ忠なり。
現代語訳
真の孝行は、孝行していることを忘れている。一念一念がそのまま孝行だからである。真の忠義は、忠義を尽くしていることを忘れている。一念一念がそのまま忠義だからである。
解説
前の条で、道徳の極みに達した人はそれを自覚しないのではないかと述べたのを、孝と忠に即して言い切った一条です。「これは親孝行だ」と意識して行ううちは、孝と自分との間にまだ隔たりがあります。本当の孝は、一つ一つの思いがすべて自然に孝になっていて、孝をしているという意識すら残らない状態だというのです。忠も同じです。『中庸』の「誠は勉めずして中り、思はずして得」にも通じ、徳が身と一体になった境地を示しています。仕事でも、顧客第一やチームのためと意識して唱えているうちはまだ努力の段階で、それが当たり前の振る舞いになったときに本物になるのでしょう。理念が行動に溶け込むとはどういうことかを考えさせます。
この章句が説くこと
孝忠無心誠徳の体得
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