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下学老談抄録 / 序文・執筆の趣旨

おのれもとより無學にして諸事を辨へずといへども、既に大齡耳順のたかきに至るを以て、富田貞行、石野英氏二兄の需めにつき、日用常行まづ捷便に心得む品々を集め口授せんとす、依て其次第を假に目録に擧げ、かたわらに自解をしるすなり、盖し人の短をいふは君子長者の愧る所なり、しかれども惡をのべざれば善たゝず、益友を擧ぐるときは損友を退けざれば其事ならず、孔夫子の聖といへども、少正卯を誅せざれば魯國を治る事あたわざるが如し、是人を敎へしめすの道なり、しかれば爰に談ずるもの、多く世間の非を說と、はなはだいとはしく、孟子にも、「言人之不善尚如後患何」とあれば、之をおそるといへども、今敎道の爲にいふなれば、二兄他に口を閉る事瓶の如く、我を罪する事なくば、予が幸ひならん、若又義理精察の論定は、漸々を以て互に談じ、切磋せむ事、是亦孔夫子の所謂朋友には切々偲々のとたるべし、此書文化六年十一月三日筆を染め、同六日申の時までに是を編し、同十七日予が樂地堂に於て、二兄及奥村以寧氏のために、はじめて講ずるものなり、

新字:おのれもとより無学にして諸事を弁へずといへども、既に大齢耳順のたかきに至るを以て、富田貞行、石野英氏二兄の需めにつき、日用常行まづ捷便に心得む品々を集め口授せんとす、依て其次第を仮に目録に挙げ、かたわらに自解をしるすなり、盖し人の短をいふは君子長者の愧る所なり、しかれども悪をのべざれば善たゝず、益友を挙ぐるときは損友を退けざれば其事ならず、孔夫子の聖といへども、少正卯を誅せざれば魯国を治る事あたわざるが如し、是人を教へしめすの道なり、しかれば爰に談ずるもの、多く世間の非を説と、はなはだいとはしく、孟子にも、「言人之不善尚如後患何」とあれば、之をおそるといへども、今教道の為にいふなれば、二兄他に口を閉る事瓶の如く、我を罪する事なくば、予が幸ひならん、若又義理精察の論定は、漸々を以て互に談じ、切磋せむ事、是亦孔夫子の所謂朋友には切々偲々のとたるべし、此書文化六年十一月三日筆を染め、同六日申の時までに是を編し、同十七日予が楽地堂に於て、二兄及奥村以寧氏のために、はじめて講ずるものなり、

書き下し

おのれもとより無學にして諸事を辨へずといへども、既に大齡耳順のたかきに至るを以て、富田貞行、石野英氏二兄の需めにつき、日用常行まづ捷便に心得む品々を集め口授せんとす、依て其次第を假に目録に擧げ、かたわらに自解をしるすなり、盖し人の短をいふは君子長者の愧る所なり、しかれども惡をのべざれば善たゝず、益友を擧ぐるときは損友を退けざれば其事ならず、孔夫子の聖といへども、少正卯を誅せざれば魯國を治る事あたわざるが如し、是人を敎へしめすの道なり、しかれば爰に談ずるもの、多く世間の非を說と、はなはだいとはしく、孟子にも、「言人之不善尚如後患何」とあれば、之をおそるといへども、今敎道の爲にいふなれば、二兄他に口を閉る事瓶の如く、我を罪する事なくば、予が幸ひならん、若又義理精察の論定は、漸々を以て互に談じ、切磋せむ事、是亦孔夫子の所謂朋友には切々偲々のとたるべし、此書文化六年十一月三日筆を染め、同六日申の時までに是を編し、同十七日予が樂地堂に於て、二兄及奥村以寧氏のために、はじめて講ずるものなり、

現代語訳

私はもともと無学で、物事をわきまえているわけではありませんが、すでに六十歳という年齢になりました。富田貞行さん、石野英氏さんのお二人に求められ、日常の行いのうちまず手近に心得るべき事柄を集めて口で伝えようと思います。そこでその順序を仮に目録として挙げ、傍らに自分の解釈を記します。そもそも人の短所を言うのは、君子や長者が恥じることです。けれども悪を述べなければ善は立たず、よい友を挙げるなら悪い友を退けなければ事は成りません。孔子のような聖人でも、少正卯を誅しなければ魯の国を治められなかったのと同じで、これが人を教え示す道です。ですからここで語ることは世間の非を説くものが多く、とても気が引けますし、孟子にも「人の不善を言えば、後の災いをどうするのか」とあって恐れますが、今は教えのために言うのですから、お二人がほかで口を瓶のように閉ざし、私を咎めないでくださるなら幸いです。もし道理を精しく察する論の定めは、少しずつ互いに語り合い切磋しましょう。これも孔子のいう、朋友は切々偲々とすべきだということです。この書は文化六年十一月三日に筆を起こし、六日の申の刻までに編み、十七日に私の楽地堂で、お二人と奥村以寧さんのために初めて講じたものです。

解説

この章は著者が自らを無学と称し、還暦を迎えて二人の求めに応じ、日常に心得るべき品々を口授するというこの書の成り立ちを述べた序です。文化六年の講義録で、短所を挙げるのは気が引けるが悪を示さねば善も立たないと断り、孔子の少正卯誅殺を引いて教えの方法を説明しています。現代の管理職にとっても、部下への注意は言いにくいものですが、良い行いの基準は悪い例と並べてこそ伝わります。指摘する側が謙虚さを示し、相手にも意見を求める構えが、率直な指導の条件だと読めます。

この章句が説くこと

序文日用常行自解少正卯切磋指導の作法

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