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下学老談抄録 / 謙遜柔和にして人と争わぬ

謙遜柔和にして、人と不剋こゝろへ、謙遜とは、孟之反不伐走而殿といひし事、是よき手本なり、今の人はとかく身がち手ぼめをなし、かたはらに聞さへうとまし、然れども若謙遜を心得たがひすれば巧言令色に似て、阿諛に落やすし、嚴威嚴格は君子の相にあらざれば、宜く和を以て人と遇して節は心に失ふべからず、君子は和して同せず是也、いにしへにかわり、當時は謙讓の道次第に薄く僭上の風行はれ、平士役の會所、割塲、奉行等紙面文段も、御用番、年寄中紙面と不異、或は年寄中、家來よりの書中に其主人を殿付に書と云ふ樣の事、僭上の至り也、昔は御用紙面にさへ自分安否を問て、其後御用も書たり、古風なる事也、かゝる僭上の體をも聞召及ばせたるにや、天明五年、年寄中に家來給人等、無禮緩怠の被仰出もあり、

新字:謙遜柔和にして、人と不剋こゝろへ、謙遜とは、孟之反不伐走而殿といひし事、是よき手本なり、今の人はとかく身がち手ぼめをなし、かたはらに聞さへうとまし、然れども若謙遜を心得たがひすれば巧言令色に似て、阿諛に落やすし、厳威厳格は君子の相にあらざれば、宜く和を以て人と遇して節は心に失ふべからず、君子は和して同せず是也、いにしへにかわり、当時は謙譲の道次第に薄く僭上の風行はれ、平士役の会所、割塲、奉行等紙面文段も、御用番、年寄中紙面と不異、或は年寄中、家来よりの書中に其主人を殿付に書と云ふ様の事、僭上の至り也、昔は御用紙面にさへ自分安否を問て、其後御用も書たり、古風なる事也、かゝる僭上の体をも聞召及ばせたるにや、天明五年、年寄中に家来給人等、無礼緩怠の被仰出もあり、

書き下し

謙遜柔和にして、人と不剋こゝろへ、謙遜とは、孟之反不伐走而殿といひし事、是よき手本なり、今の人はとかく身がち手ぼめをなし、かたはらに聞さへうとまし、然れども若謙遜を心得たがひすれば巧言令色に似て、阿諛に落やすし、嚴威嚴格は君子の相にあらざれば、宜く和を以て人と遇して節は心に失ふべからず、君子は和して同せず是也、いにしへにかわり、當時は謙讓の道次第に薄く僭上の風行はれ、平士役の會所、割塲、奉行等紙面文段も、御用番、年寄中紙面と不異、或は年寄中、家來よりの書中に其主人を殿付に書と云ふ樣の事、僭上の至り也、昔は御用紙面にさへ自分安否を問て、其後御用も書たり、古風なる事也、かゝる僭上の體をも聞召及ばせたるにや、天明五年、年寄中に家來給人等、無禮緩怠の被仰出もあり、

現代語訳

謙遜柔和で、人と争わない心得でいなさい。謙遜とは、孟之反が自分の功を誇らず、退却のときに殿をつとめたという故事がよい手本です。今の人はとかく自分のことを自慢したり、自分で自分を褒めたりして、傍らで聞くのさえ嫌になります。けれども謙遜を取り違えると、巧言令色に似て、へつらいに落ちやすくなります。厳しく威張る態度は君子の姿ではありませんから、和をもって人に接し、節度は心の中で失ってはなりません。君子は和して同ぜず、とはこのことです。昔と違って今は謙譲の道が次第に薄れ、身分を越えた振る舞いが行われています。平士役の会所や割場、奉行などの文書の文面は、御用番や年寄中への文書と変わらず、あるいは年寄中が、家来からの書状でその主人を殿づけに書くといったことは、僭上の極みです。昔は御用の書状でさえ、まず自分から安否を問い、その後に用件を書いたもので、古風なことでした。こうした僭上の様子をお聞き及びになったのでしょうか、天明五年には、年寄中に対する家来や給人らの無礼・怠慢を戒める仰せ出しもありました。

解説

この章は謙遜を、孟之反の殿の故事を手本に、自慢せず和して同ぜずという態度として説きます。同時に、謙遜を取り違えるとへつらいに落ちると釘を刺し、厳しく威張るのも君子の姿ではないとして、両極を戒めています。後半では、文書の敬称が身分秩序を越えて乱れる当時の風潮を僭上と批判しています。現代の管理職にとって、謙虚さとは自己卑下でも迎合でもなく、成果を誇らず、相手を立てつつ筋は曲げないことです。呼称や報告の作法も、組織の秩序を映すものとして軽く見ないことです。

この章句が説くこと

謙遜柔和和して同ぜず孟之反僭上巧言令色

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