学則 / 答屈景山書
如陽明仁齋。亦排宋儒者也。然唯以其心言之。而不知求諸辭與事。亦宋人之類耳。故不佞不取焉。李王二公沒世用其力於文章之業。而不遑及經術。然不佞藉其學。以得窺經術之一斑焉。是不佞所以俾從游之士學二公之業者。亦以其所驗於已者敎之也。豈有它意乎。
新字:如陽明仁斎。亦排宋儒者也。然唯以其心言之。而不知求諸辞与事。亦宋人之類耳。故不佞不取焉。李王二公没世用其力於文章之業。而不遑及経術。然不佞藉其学。以得窺経術之一斑焉。是不佞所以俾従游之士学二公之業者。亦以其所験於已者教之也。豈有它意乎。
書き下し
陽明・仁斎の如きも、亦た宋儒を排する者なり。然れども唯其の心を以て之を言ひて、諸を辞と事とに求むるを知らず。亦た宋人の類のみ。故に不佞取らず。李王二公は世を没するまで其の力を文章の業に用ゐて、経術に及ぶに遑あらず。然れども不佞其の学を藉りて、以て経術の一斑を窺ふを得たり。是れ不佞の従游の士をして二公の業を学ばしむる所以の者も、亦た其の己に験する所を以て之を教ふるなり。豈に它意有らんや。
現代語訳
王陽明や伊藤仁斎も、宋儒を退けた人である。しかしただ自分の心によって語るだけで、言葉と事実に求めることを知らない。これも宋の人と同類にすぎない。だから私は採らない。李・王の二人は生涯その力を文章の仕事に注ぎ、経学にまで手が回らなかった。けれども私は彼らの学問を借りて、経学の一端をうかがうことができた。私が門人たちに二人の著作を学ばせるのも、自分の身で確かめたことを教えているのであって、ほかの意図などあろうか。
解説
徂徠は王陽明と伊藤仁斎も、朱子学を批判しながら結局は心で語っている点で宋儒と同類だと断じる。仁斎は古義学で朱子学を批判した先達だが、徂徠から見れば、辞と事に求める方法が足りなかった。一方、文章家にすぎない李攀龍・王世貞から、経学を読む方法を得たという逆説が面白い。門人に彼らを学ばせるのは自分の体験に基づくのだという。教える内容は、自分で試して効果を確かめたものに限る。この誠実さが、指導する立場にある人の言葉に重みを与えるのである。
この章句が説くこと
陽明学仁斎宋儒経学教育古文辞
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