学論抄録 / 武器の遠近と柔術に見る不殺の武
武器之用、有攻具焉、有守具焉、殺敵於百步之外者、弩砲也、爭擊刺於五步三步之內者、戈矛刀劔也、其成功亦在度量中節、弩砲不利於近、而刀劔無功於遠、有物有則、亦理當然也、故有遠近之論、而無取捨之辨、一偏著器械而言此有利無害、彼有害無利者、非公論也、古曰、强弩之末不斷魯縞、明于此者、不借守具之力、而得能禦大銃强弩、知其所屈也、又在于人藪中、則劔不能拔、殿上伺候、或不帶劔、浴室裸體、不能借利器之力、又當今治日、無戰陣之事、一時紛擾、多酒狂兒勇所致、輒用兵刄害之、亦可謂不仁也、於是把勢一術、徒手挫賊甚妙、所謂神武不殺者也、國人殊極其秘、號曰柔術、蓋柔能制剛、弱能制强之謂也、享保年間、侍衞員有柳秀先生者、(姓野澤名淸位)爲人明敏多能、就中柔術得妙、號曰楊心流、其徒數百人、分日會習、來往絡繹矣、聞其創業開祖秋山氏、二祖大井氏、共肥前州人、其始練磨積年而未成、深自憂之、詣太宰府天滿宮、祈請數日、一夜忽夢老翁賜楊柳帶雪、而廓然開悟焉、名曰楊心者原之耳、其爲術也、變化難測、應用無窮、一縱一橫、如柳枝遇風、而有作無意、或見或晦、如雪花上手、而有形可捉、
新字:武器之用、有攻具焉、有守具焉、殺敵於百歩之外者、弩砲也、争撃刺於五歩三歩之内者、戈矛刀剣也、其成功亦在度量中節、弩砲不利於近、而刀剣無功於遠、有物有則、亦理当然也、故有遠近之論、而無取捨之弁、一偏著器械而言此有利無害、彼有害無利者、非公論也、古曰、強弩之末不断魯縞、明于此者、不借守具之力、而得能禦大銃強弩、知其所屈也、又在于人藪中、則剣不能抜、殿上伺候、或不帯剣、浴室裸体、不能借利器之力、又当今治日、無戦陣之事、一時紛擾、多酒狂児勇所致、輒用兵刄害之、亦可謂不仁也、於是把勢一術、徒手挫賊甚妙、所謂神武不殺者也、国人殊極其秘、号曰柔術、蓋柔能制剛、弱能制強之謂也、享保年間、侍衛員有柳秀先生者、(姓野沢名清位)為人明敏多能、就中柔術得妙、号曰楊心流、其徒数百人、分日会習、来往絡繹矣、聞其創業開祖秋山氏、二祖大井氏、共肥前州人、其始練磨積年而未成、深自憂之、詣太宰府天満宮、祈請数日、一夜忽夢老翁賜楊柳帯雪、而廓然開悟焉、名曰楊心者原之耳、其為術也、変化難測、応用無窮、一縦一横、如柳枝遇風、而有作無意、或見或晦、如雪花上手、而有形可捉、
書き下し
武器の用に、攻具有り守具有り。敵を百歩の外に殺す者は弩砲なり。撃刺を五歩三歩の内に争ふ者は戈矛刀剣なり。其の功を成すも亦た度量節に中るに在り。弩砲は近きに利あらず、刀剣は遠きに功無し。物有れば則有り、亦た理の当然なり。故に遠近の論有りて、取捨の弁無し。一偏に器械に著きて、此れは利有りて害無し、彼は害有りて利無しと言ふ者は、公論に非ざるなり。古に曰く、強弩の末は魯縞を断たず、と。此に明らかなる者は、守具の力を借らずして、能く大銃強弩を禦ぐを得、其の屈する所を知ればなり。又た人藪の中に在れば、則ち剣は抜く能はず。殿上に伺候して、或いは剣を帯びず。浴室に裸体にして、利器の力を借る能はず。又た当今治日にして、戦陣の事無し。一時の紛擾は、多くは酒狂児勇の致す所にして、輒ち兵刃を用ひて之を害す。亦た不仁と謂ふべし。是に於いて把勢の一術、徒手にて賊を挫く、甚だ妙なり。所謂神武不殺なる者なり。国人殊に其の秘を極め、号して柔術と曰ふ。蓋し柔能く剛を制し、弱能く強を制すの謂なり。享保年間、侍衛員に柳秀先生なる者有り(姓は野沢、名は清位)。人と為り明敏多能にして、就中柔術に妙を得、号して楊心流と曰ふ。其の徒数百人、日を分かちて会習し、来往絡繹たり。聞く、其の創業の開祖は秋山氏、二祖は大井氏、共に肥前州の人なり。其の始め練磨すること積年にして未だ成らず、深く自ら之を憂ひ、太宰府天満宮に詣でて、祈請すること数日、一夜忽ち夢に老翁、楊柳雪を帯ぶるを賜ひ、廓然として開悟す。名づけて楊心と曰ふは原ぬるのみ。其の術たるや、変化測り難く、応用窮まり無し。一縦一横、柳枝の風に遇ふが如くして、作す有れども意無し。或いは見え或いは晦く、雪花の手に上るが如くして、形有れども捉ふべし。
現代語訳
武器の用い方には、攻める道具と守る道具があります。敵を百歩の外で倒すのは弩・砲で、五歩三歩の内で撃ち刺し合うのは戈・矛・刀・剣です。その功を成すにも、度量が節度に適うことが大切です。弩や砲は近くには有利でなく、刀剣は遠くには功がありません。物には則があり、これも道理の当然です。ですから遠近の論はあっても、取捨の区別はありません。一方に偏って器械に執着し、これは利があって害がなく、あれは害があって利がないと言うのは、公平な論ではありません。古に「強弩の末は魯縞を断てない」とあります。これに明るい者は、守具の力を借りなくても、大砲や強い弩を防ぐことができます。その屈するところを知っているからです。また人混みの中では、剣は抜けません。殿上に控えるときは、剣を帯びないこともあります。浴室で裸のときは、利器の力を借りられません。また今は治まった世で、戦陣の事はありません。一時の騒ぎは、多くは酒に狂った者や血気の勇者が起こすもので、すぐに兵刃を用いて傷つけるのは、不仁というべきです。そこで把勢の一術は、素手で賊をくじく、たいへん妙なものです。いわゆる「神武は殺さず」です。わが国の人はとりわけその秘を極め、柔術と呼んでいます。柔よく剛を制し、弱よく強を制す、の意でしょう。享保年間、侍衛の員に柳秀先生という者がいました(姓は野沢、名は清位)。人柄は明敏で多才で、とりわけ柔術に妙を得て、楊心流と名づけました。その門人は数百人で、日を分けて集まり習い、行き来が絶えませんでした。聞くところでは、創始の開祖は秋山氏、二祖は大井氏で、ともに肥前の人です。その初め、鍛錬を積年重ねても成就せず、深く自ら憂え、太宰府天満宮に詣でて、数日祈り、ある夜、夢に老翁が雪をかぶった楊柳を授け、からりと悟りを開いたといいます。楊心と名づけたのは、これに由来するのでしょう。その術は、変化が測りがたく、応用は窮まりません。縦横に動くさまは、柳の枝が風に遇うようで、作為はあっても意がありません。見え隠れするさまは、雪の花が手に乗るようで、形はあって捉えることができます。
解説
この章句が説くこと
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