福沢諭吉小品集 / 瘠我慢の説・第15段
榎本氏が主戦論をとりて脱走し、遂に力尽きて降りたるまでは、幕臣の本分に背かず、忠勇の功名美なりといえども、降参放免の後に更に青雲の志を発して新政府の朝に富貴を求め得たるは、曩にその忠勇を共にしたる戦死者負傷者より爾来の流浪者貧窮者に至るまで、すべて同挙同行の人々に対して聊か慙愧の情なきを得ず。これまたその功名の価を損ずるところのものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名を空うするの媒介なれば、今なお晩からず、二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。天下後世にその名を芳にするも臭にするも、心事の決断如何に在り、力めざるべからざるなり。 然りといえども人心の微弱、或は我輩の言に従うこと能わざるの事情もあるべし。これまた止むを得ざる次第なれども、兎に角に明治年間にこの文字を記して二氏を論評したる者ありといえば、また以て後世士人の風を維持することもあらんか、拙筆また徒労にあらざるなり。
新字:榎本氏が主戦論をとりて脱走し、遂に力尽きて降りたるまでは、幕臣の本分に背かず、忠勇の功名美なりといえども、降参放免の後に更に青雲の志を発して新政府の朝に富貴を求め得たるは、曩にその忠勇を共にしたる戦死者負傷者より爾来の流浪者貧窮者に至るまで、すべて同挙同行の人々に対して聊か慚愧の情なきを得ず。これまたその功名の価を損ずるところのものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名を空うするの媒介なれば、今なお晩からず、二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。天下後世にその名を芳にするも臭にするも、心事の決断如何に在り、力めざるべからざるなり。 然りといえども人心の微弱、或は我輩の言に従うこと能わざるの事情もあるべし。これまた止むを得ざる次第なれども、兎に角に明治年間にこの文字を記して二氏を論評したる者ありといえば、また以て後世士人の風を維持することもあらんか、拙筆また徒労にあらざるなり。
書き下し
榎本氏が主戦論をとりて脱走し、遂に力尽きて降りたるまでは、幕臣の本分に背かず、忠勇の功名美なりといえども、降参放免の後に更に青雲の志を発して新政府の朝に富貴を求め得たるは、曩にその忠勇を共にしたる戦死者負傷者より爾来の流浪者貧窮者に至るまで、すべて同挙同行の人々に対して聊か慚愧の情なきを得ず。これまたその功名の価を損ずるところのものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名を空うするの媒介なれば、今なお晩からず、二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。天下後世にその名を芳にするも臭にするも、心事の決断如何に在り、力めざるべからざるなり。 然りといえども人心の微弱、或は我輩の言に従うこと能わざるの事情もあるべし。これまた止むを得ざる次第なれども、兎に角に明治年間にこの文字を記して二氏を論評したる者ありといえば、また以て後世士人の風を維持することもあらんか、拙筆また徒労にあらざるなり。
現代語訳
榎本氏が主戦論をとって脱走し、ついに力尽きて降伏するまでは、幕臣の本分に背かず、忠勇の功名は立派ですが、降伏して放免された後、改めて立身出世の志を起こして、新政府の朝廷に富貴を求め得たことは、さきにその忠勇を共にした戦死者、負傷者から、その後の流浪者、貧窮者に至るまで、同じ挙を共にし行動を共にしたすべての人々に対して、少し恥じる気持ちがなければなりません。これもまたその功名の値打ちを損なうところであり、要するに二氏の富貴こそ、その身の功名をむなしくする媒介ですから、今なお遅くはありません。二氏とも、きっぱりと世を遁れ、維新以来の非を改めて、すでに得た功名を全うしてほしいと祈るばかりです。天下後世に、その名を芳しくするも臭くするも、心の決断いかんにあります。努めなければなりません。 とはいえ、人の心は弱いもので、あるいは私の言葉に従えない事情もあるでしょう。これもまたやむを得ないことですが、とにかく明治の年間に、この文章を書いて二氏を論評した者がいたということになれば、それもまた後世の士人の風を維持する助けとなるかもしれません。私の拙い筆も、無駄ではないのです。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第14段古来の習慣に従えば、凡そこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例もあれども、今の世間の風潮にて出家落飾も不似合とならば、ただその身を社会の暗処に隠してその生活を質素にし、一切万事控目にして世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ。 これを要するに維新の際、脱走の一挙に失敗したるは、氏が政治上の死にして、たといその肉体の身は死せざるも最早政治上に再生すべからざるものと観念して唯一身を慎み、一は以て同行戦死者の霊を弔してまたその遺族の人々の不幸不平を慰め、また一には凡そ何事に限らず大挙してその首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて決してこれを遁るべからず、成ればその栄誉を専らにし敗すればその苦難に当るとの主義を明にするは、士流社会の風教上に大切なることなるべし。すなわちこれ我輩が榎本氏の出処に就き所望の一点にして、独り氏の一身の為めのみにあらず、国家百年の謀において士風消長の為めに軽々看過すべからざるところのものなり。 以上の立言は我輩が勝、榎本の二氏に向て攻撃を試みたるにあらず。謹んで筆鋒を寛にして苛酷の文字を用いず、以てその人の名誉を保護するのみか、実際においてもその智謀忠勇の功名をば飽くまでも認る者なれども、凡そ人生の行路に富貴を取れば功名を失い、功名を全うせんとするときは富貴を棄てざるべからざるの場合あり。二氏のごときは正しくこの局に当る者にして、勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、これを解きて主家の廃滅したるその廃滅の因縁が、偶ま以て一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便となりたる姿にては、たといその富貴は自から求めずして天外より授けられたるにもせよ、三河武士の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角の功名手柄も世間の見るところにて光を失わざるを得ず。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第11段また勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまた序ながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したれども、ついに窮して降参したる者なり。この時に当り徳川政府は伏見の一敗復た戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして人心既に瓦解し、その勝算なきは固より明白なるところなれども、榎本氏の挙は所謂武士の意気地すなわち瘠我慢にして、その方寸の中には窃に必敗を期しながらも、武士道の為めに敢て一戦を試みたることなれば、幕臣また諸藩士中の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従て進退を共にし、北海の水戦、箱館の籠城、その決死苦戦の忠勇は天晴の振舞にして、日本魂の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同うして語るべからず。 然るに脱走の兵、常に利あらずして勢漸く迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督を始め一部分の人々は最早これまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運の拙きものなれども、成敗は兵家の常にして固より咎むべきにあらず、新政府においてもその罪を悪んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは文明の寛典というべし。氏の挙動も政府の処分も共に天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服すること能わざるところのものなり。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第10段天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為めに謀れば、たとい今日の文明流に従って維新後に幸に身を全うすることを得たるも、自から省みて我立国の為めに至大至重なる上流士人の気風を害したるの罪を引き、維新前後の吾身の挙動は一時の権道なり、権りに和議を講じて円滑に事を纏めたるは、ただその時の兵禍を恐れて人民を塗炭に救わんが為めのみなれども、本来立国の要は瘠我慢の一義に在り、いわんや今後敵国外患の変なきを期すべからざるにおいてをや。かかる大切の場合に臨んでは兵禍は恐るるに足らず、天下後世国を立てて外に交わらんとする者は、努吾維新の挙動を学んで権道に就くべからず、俗にいう武士の風上にも置かれぬとはすなわち吾一身の事なり、後世子孫これを再演するなかれとの意を示して、断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛ち、単身去てその跡を隠すこともあらんには、世間の人も始めてその誠の在るところを知りてその清操に服し、旧政府放解の始末も真に氏の功名に帰すると同時に、一方には世教万分の一を維持するに足るべし。 すなわち我輩の所望なれども、今その然らずして恰も国家の功臣を以て傲然自から居るがごとき、必ずしも窮屈なる三河武士の筆法を以て弾劾するを須たず、世界立国の常情に訴えて愧るなきを得ず。啻に氏の私の為めに惜しむのみならず、士人社会風教の為めに深く悲しむべきところのものなり。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第12段敵に降りてその敵に仕うるの事例は古来稀有にあらず。殊に政府の新陳変更するに当りて、前政府の士人等が自立の資を失い、糊口の為めに新政府に職を奉ずるがごときは、世界古今普通の談にして毫も怪しむに足らず、またその人を非難すべきにあらずといえども、榎本氏の一身はこれ普通の例を以て掩うべからざるの事故あるがごとし。すなわちその事故とは日本武士の人情これなり。氏は新政府に出身して啻に口を糊するのみならず、累遷立身して特派公使に任ぜられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志達し得て目出度しといえども、顧みて往事を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。 当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを恃み、氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者は恰も見捨てられたる姿にして、その落胆失望はいうまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者若し霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。伝え聞く、箱館の五稜郭開城のとき、総督榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告せしに、一部分の人はこれを聞て大に怒り、元来今回の挙は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習として一死以て二百五十年の恩に報るのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等は我等の武士道に斃れんのみとて憤戦止まらず、その中には父子諸共に切死したる人もありしという。 烏江水浅騅能逝、一片義心不可東とは、往古漢楚の戦に、楚軍振わず項羽が走りて烏江の畔に至りしとき、或人はなお江を渡りて、再挙の望なきにあらずとてその死を留めたりしかども、羽はこれを聴かず、初め江東の子弟八千を率いて西し、幾回の苦戦に戦没して今は一人の残る者なし、斯る失敗の後に至り、何の面目か復た江東に還りて死者の父兄を見んとて、自尽したるその時の心情を詩句に写したるものなり。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第9段騒擾の際に敵味方相対し、その敵の中に謀臣ありて平和の説を唱え、たとい弐心を抱かざるも味方に利するところあれば、その時にはこれを奇貨として私にその人を厚遇すれども、干戈すでに収まりて戦勝の主領が社会の秩序を重んじ、新政府の基礎を固くして百年の計をなすに当りては、一国の公道のために私情を去り、曩きに奇貨とし重んじたる彼の敵国の人物を目して不臣不忠と唱え、これを擯斥して近づけざるのみか、時としては殺戮することさえ少なからず。誠に無慚なる次第なれども、自から経世の一法として忍んでこれを断行することなるべし。 すなわち東洋諸国専制流の慣手段にして、勝氏のごときも斯る専制治風の時代に在らば、或は同様の奇禍に罹りて新政府の諸臣を警しむるの具に供せられたることもあらんなれども、幸にして明治政府には専制の君主なく、政権は維新功臣の手に在りて、その主義とするところ、すべて文明国の顰に傚い、一切万事寛大を主として、この敵方の人物を擯斥せざるのみか、一時の奇貨も永日の正貨に変化し、旧幕府の旧風を脱して新政府の新貴顕と為り、愉快に世を渡りて、かつて怪しむ者なきこそ古来未曽有の奇相なれ。 我輩はこの一段に至りて、勝氏の私の為めには甚だ気の毒なる次第なれども、聊か所望の筋なきを得ず。その次第は前にいえるごとく、氏の尽力を以て穏に旧政府を解き、由て以て殺人散財の禍を免かれたるその功は奇にして大なりといえども、一方より観察を下すときは、敵味方相対して未だ兵を交えず、早く自から勝算なきを悟りて謹慎するがごとき、表面には官軍に向て云々の口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、我日本国民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免かれしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第5段故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、外面の体裁に文野の変遷こそあるべけれ、百千年の後に至るまでも一片の瘠我慢は立国の大本としてこれを重んじ、いよいよますますこれを培養してその原素の発達を助くること緊要なるべし。すなわち国家風教の貴き所以にして、たとえば南宋の時に廟議、主戦と講和と二派に分れ、主戦論者は大抵皆擯けられて或は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は講和者の不義を悪んで主戦者の孤忠を憐まざる者なし。事の実際をいえば弱宋の大事すでに去り、百戦必敗は固より疑うべきにあらず、むしろ恥を忍んで一日も趙氏の祀を存したるこそ利益なるに似たれども、後世の国を治る者が経綸を重んじて士気を養わんとするには、講和論者の姑息を排して主戦論者の瘠我慢を取らざるべからず。これすなわち両者が今に至るまで臭芳の名を殊にする所以なるべし。 然るに爰に遺憾なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新の事起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。得を以て損を償うに足らざるものというべし。 そもそも維新の事は帝室の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず。この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るもさらに佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再挙三拳ついに成らざれば退て江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖し、いよいよ策竭るに至りて城を枕に討死するのみ。すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。
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