福沢諭吉小品集 / 瘠我慢の説・第5段
故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、外面の体裁に文野の変遷こそあるべけれ、百千年の後に至るまでも一片の瘠我慢は立国の大本としてこれを重んじ、いよいよますますこれを培養してその原素の発達を助くること緊要なるべし。すなわち国家風教の貴き所以にして、たとえば南宋の時に廟議、主戦と講和と二派に分れ、主戦論者は大抵皆擯けられて或は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は講和者の不義を悪んで主戦者の孤忠を憐まざる者なし。事の実際をいえば弱宋の大事すでに去り、百戦必敗は固より疑うべきにあらず、むしろ恥を忍んで一日も趙氏の祀を存したるこそ利益なるに似たれども、後世の国を治る者が経綸を重んじて士気を養わんとするには、講和論者の姑息を排して主戦論者の瘠我慢を取らざるべからず。これすなわち両者が今に至るまで臭芳の名を殊にする所以なるべし。 然るに爰に遺憾なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新の事起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。得を以て損を償うに足らざるものというべし。 そもそも維新の事は帝室の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず。この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るもさらに佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再挙三拳ついに成らざれば退て江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖し、いよいよ策竭るに至りて城を枕に討死するのみ。すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。
書き下し
故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、外面の体裁に文野の変遷こそあるべけれ、百千年の後に至るまでも一片の瘠我慢は立国の大本としてこれを重んじ、いよいよますますこれを培養してその原素の発達を助くること緊要なるべし。すなわち国家風教の貴き所以にして、たとえば南宋の時に廟議、主戦と講和と二派に分れ、主戦論者は大抵皆擯けられて或は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は講和者の不義を悪んで主戦者の孤忠を憐まざる者なし。事の実際をいえば弱宋の大事すでに去り、百戦必敗は固より疑うべきにあらず、むしろ恥を忍んで一日も趙氏の祀を存したるこそ利益なるに似たれども、後世の国を治る者が経綸を重んじて士気を養わんとするには、講和論者の姑息を排して主戦論者の瘠我慢を取らざるべからず。これすなわち両者が今に至るまで臭芳の名を殊にする所以なるべし。 然るに爰に遺憾なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新の事起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。得を以て損を償うに足らざるものというべし。 そもそも維新の事は帝室の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず。この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るもさらに佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再挙三拳ついに成らざれば退て江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖し、いよいよ策竭るに至りて城を枕に討死するのみ。すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。
現代語訳
ですから、人間社会の事物が今日のようである限り、外面の体裁には文明か野蛮かという変遷があるとしても、百年、千年の後に至るまでも、一片の瘠我慢は立国の大本として重んじ、いよいよこれを培い養って、その要素の発達を助けることが肝要でしょう。これが国家の風教の貴いゆえんで、たとえば南宋の時代に、朝廷の議論が主戦派と講和派の二派に分かれ、主戦論者は大抵みな退けられ、あるいは身を殺された者もありましたが、天下後世の評論は、講和者の不義を憎んで、主戦者の孤忠を憐れまない者はいません。事の実際をいえば、弱い宋の大事はすでに去り、百戦して必ず敗れることは疑うべくもなく、むしろ恥を忍んで一日でも趙氏の祭祀を存続させたほうが利益のように見えますが、後世の国を治める者が経綸を重んじて士気を養おうとするには、講和論者のその場しのぎを排して、主戦論者の瘠我慢を取らなければなりません。これが両者が今に至るまで悪名と芳名を異にしている理由なのでしょう。 ところが、ここに残念なのは、我が日本国において、今から二十年余り前、王政維新のことが起こったとき、その際に不幸にもこの大切な瘠我慢という一大義を害したことがあるということです。つまり、徳川家の末路に、家臣の一部が早く大事の去ることを悟って、敵に対してまったく抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自ら家を解体したのは、日本の経済においては一時の利益を成したとしても、数百年、数千年かけて養われた我が日本武士の気風を傷つけた不利益は決して少なくありません。得をもって損を償うには足りないものというべきです。 そもそも維新のことは、朝廷の名義はあるものの、実際は二、三の強い藩が徳川に敵対したものにほかなりません。この時に当たって、徳川家の一族に三河武士の古風があったならば、伏見で敗れて江戸に帰っても、さらに幕府側の諸藩に命じて再挙を図り、再挙、三挙してもついに成らなければ退いて江戸城を守り、たとえ一日でも家の命運を長くして、なお万一の僥倖を期待し、いよいよ策が尽きるに至って、城を枕に討死するのみです。これはつまり、先に言ったように、父母の大病に一日の長命を祈る者と異ならないでしょう。このようであってこそ、瘠我慢の主義も完全といえるのです。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第7段左れば当時積弱の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといえども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りにあらず。いわんや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるにおいてをや。然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自から自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責は免かるべからず。殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。これを典して彼を買う、その功罪相償うや否や、容易に断定すべき問題にあらざるなり。 或はいう、王政維新の成敗は内国の事にして、いわば兄弟朋友間の争いのみ、当時東西相敵したりといえどもその実は敵にして敵にあらず、兎に角に幕府が最後の死力を張らずしてその政府を解きたるは時勢に応じて好き手際なりとて、妙に説を作すものあれども、一場の遁辞口実たるに過ぎず。内国の事にても朋友間の事にても、既に事端を発するときは敵はすなわち敵なり。然るに今その敵に敵するは、無益なり、無謀なり、国家の損亡なりとて、専ら平和無事に誘導したるその士人を率いて、一朝敵国外患の至るに当り、能くその士気を振うて極端の苦辛に堪えしむるの術あるべきや。内に瘠我慢なきものは外に対してもまた然らざるを得ず。これを筆にするも不祥ながら、億万一にも我日本国民が外敵に逢うて、時勢を見計らい手際好く自から解散するがごときあらば、これを何とか言わん。然り而して幕府解散の始末は内国の事に相違なしといえども、自から一例を作りたるものというべし。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第10段天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為めに謀れば、たとい今日の文明流に従って維新後に幸に身を全うすることを得たるも、自から省みて我立国の為めに至大至重なる上流士人の気風を害したるの罪を引き、維新前後の吾身の挙動は一時の権道なり、権りに和議を講じて円滑に事を纏めたるは、ただその時の兵禍を恐れて人民を塗炭に救わんが為めのみなれども、本来立国の要は瘠我慢の一義に在り、いわんや今後敵国外患の変なきを期すべからざるにおいてをや。かかる大切の場合に臨んでは兵禍は恐るるに足らず、天下後世国を立てて外に交わらんとする者は、努吾維新の挙動を学んで権道に就くべからず、俗にいう武士の風上にも置かれぬとはすなわち吾一身の事なり、後世子孫これを再演するなかれとの意を示して、断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛ち、単身去てその跡を隠すこともあらんには、世間の人も始めてその誠の在るところを知りてその清操に服し、旧政府放解の始末も真に氏の功名に帰すると同時に、一方には世教万分の一を維持するに足るべし。 すなわち我輩の所望なれども、今その然らずして恰も国家の功臣を以て傲然自から居るがごとき、必ずしも窮屈なる三河武士の筆法を以て弾劾するを須たず、世界立国の常情に訴えて愧るなきを得ず。啻に氏の私の為めに惜しむのみならず、士人社会風教の為めに深く悲しむべきところのものなり。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第4段我封建の時代、百万石の大藩に隣して一万石の大名あるも、大名はすなわち大名にして毫も譲るところなかりしも、畢竟瘠我慢の然らしむるところにして、また事柄は異なれども、天下の政権武門に帰し、帝室は有れども無きがごとくなりしこと何百年、この時に当りて臨時の処分を謀りたらば、公武合体等種々の便利法もありしならんといえども、帝室にして能くその地位を守り幾艱難のその間にも至尊犯すべからざるの一義を貫き、たとえば彼の有名なる中山大納言が東下したるとき、将軍家を目して吾妻の代官と放言したりというがごとき、当時の時勢より見れば瘠我慢に相違なしといえども、その瘠我慢こそ帝室の重きを成したる由縁なれ。 また古来士風の美をいえば三河武士の右に出る者はあるべからず、その人々について品評すれば、文に武に智に勇におのおの長ずるところを殊にすれども、戦国割拠の時に当りて徳川の旗下に属し、能く自他の分を明にして二念あることなく、理にも非にもただ徳川家の主公あるを知て他を見ず、いかなる非運に際して辛苦を嘗るもかつて落胆することなく、家のため主公のためとあれば必敗必死を眼前に見てなお勇進するの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるがごとし。これすなわち宗祖家康公が小身より起りて四方を経営しついに天下の大権を掌握したる所以にして、その家の開運は瘠我慢の賜なりというべし。 左れば瘠我慢の一主義は固より人の私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等しといわるるも弁解に辞なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義に由らざるはなし。我封建の時代に諸藩の相互に競争して士気を養うたるもこの主義に由り、封建すでに廃して一統の大日本帝国と為り、さらに眼界を広くして文明世界に独立の体面を張らんとするもこの主義に由らざるべからず。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第6段然るに彼の講和論者たる勝安房氏の輩は、幕府の武士用うべからずといい、薩長兵の鋒敵すべからずといい、社会の安寧害すべからずといい、主公の身の上危しといい、或は言を大にして墻に鬩ぐの禍は外交の策にあらずなど、百方周旋するのみならず、時としては身を危うすることあるもこれを憚らずして和議を説き、ついに江戸解城と為り、徳川七十万石の新封と為りて無事に局を結びたり。実に不可思議千万なる事相にして、当時或る外人の評に、およそ生あるものはその死に垂んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆虫が百貫目の鉄槌に撃たるるときにても、なおその足を張て抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対して毫も敵対の意なく、ただ一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは、古今世界中に未だその例を見ずとて、窃に冷笑したるも謂れなきにあらず。 蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の労費と認め、味方に勝算なき限りは速に和して速に事を収るに若かずとの数理を信じたるものより外ならず。その口に説くところを聞けば主公の安危または外交の利害などいうといえども、その心術の底を叩てこれを極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に瘠我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊の間に瞞着したる者なりと評して、これに答うる辞はなかるべし。一時の豪気は以て懦夫の胆を驚かすに足り、一場の詭言は以て少年輩の心を籠絡するに足るといえども、具眼卓識の君子は終に欺くべからず惘うべからざるなり。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第9段騒擾の際に敵味方相対し、その敵の中に謀臣ありて平和の説を唱え、たとい弐心を抱かざるも味方に利するところあれば、その時にはこれを奇貨として私にその人を厚遇すれども、干戈すでに収まりて戦勝の主領が社会の秩序を重んじ、新政府の基礎を固くして百年の計をなすに当りては、一国の公道のために私情を去り、曩きに奇貨とし重んじたる彼の敵国の人物を目して不臣不忠と唱え、これを擯斥して近づけざるのみか、時としては殺戮することさえ少なからず。誠に無慚なる次第なれども、自から経世の一法として忍んでこれを断行することなるべし。 すなわち東洋諸国専制流の慣手段にして、勝氏のごときも斯る専制治風の時代に在らば、或は同様の奇禍に罹りて新政府の諸臣を警しむるの具に供せられたることもあらんなれども、幸にして明治政府には専制の君主なく、政権は維新功臣の手に在りて、その主義とするところ、すべて文明国の顰に傚い、一切万事寛大を主として、この敵方の人物を擯斥せざるのみか、一時の奇貨も永日の正貨に変化し、旧幕府の旧風を脱して新政府の新貴顕と為り、愉快に世を渡りて、かつて怪しむ者なきこそ古来未曽有の奇相なれ。 我輩はこの一段に至りて、勝氏の私の為めには甚だ気の毒なる次第なれども、聊か所望の筋なきを得ず。その次第は前にいえるごとく、氏の尽力を以て穏に旧政府を解き、由て以て殺人散財の禍を免かれたるその功は奇にして大なりといえども、一方より観察を下すときは、敵味方相対して未だ兵を交えず、早く自から勝算なきを悟りて謹慎するがごとき、表面には官軍に向て云々の口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、我日本国民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免かれしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第3段さて、この立国立政府の公道を行わんとするに当り、平時に在ては差したる艱難もなしといえども、時勢の変遷に従て国の盛衰なきを得ず。その衰勢に及んではとても自家の地歩を維持するに足らず、廃滅の数すでに明なりといえども、なお万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽きて然る後に斃るるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。これも哲学流にていえば、等しく死する病人なれば、望なき回復を謀るがためいたずらに病苦を長くするよりも、モルヒネなど与えて臨終を安楽にするこそ智なるがごとくなれども、子と為りて考うれば、億万中の一を僥倖しても、故らに父母の死を促がすがごときは、情において忍びざるところなり。 左れば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの瘠我慢に依らざるはなし。啻に戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても瘠我慢の一義は決してこれを忘るべからず。欧州にて和蘭、白耳義のごとき小国が、仏独の間に介在して小政府を維持するよりも、大国に合併するこそ安楽なるべけれども、なおその独立を張て動かざるは小国の瘠我慢にして、我慢能く国の栄誉を保つものというべし。
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