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福沢諭吉小品集 / 瘠我慢の説・第12段

敵に降りてその敵に仕うるの事例は古来稀有にあらず。殊に政府の新陳変更するに当りて、前政府の士人等が自立の資を失い、糊口の為めに新政府に職を奉ずるがごときは、世界古今普通の談にして毫も怪しむに足らず、またその人を非難すべきにあらずといえども、榎本氏の一身はこれ普通の例を以て掩うべからざるの事故あるがごとし。すなわちその事故とは日本武士の人情これなり。氏は新政府に出身して啻に口を糊するのみならず、累遷立身して特派公使に任ぜられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志達し得て目出度しといえども、顧みて往事を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。 当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを恃み、氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者は恰も見捨てられたる姿にして、その落胆失望はいうまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者若し霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。伝え聞く、箱館の五稜郭開城のとき、総督榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告せしに、一部分の人はこれを聞て大に怒り、元来今回の挙は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習として一死以て二百五十年の恩に報るのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等は我等の武士道に斃れんのみとて憤戦止まらず、その中には父子諸共に切死したる人もありしという。 烏江水浅騅能逝、一片義心不可東とは、往古漢楚の戦に、楚軍振わず項羽が走りて烏江の畔に至りしとき、或人はなお江を渡りて、再挙の望なきにあらずとてその死を留めたりしかども、羽はこれを聴かず、初め江東の子弟八千を率いて西し、幾回の苦戦に戦没して今は一人の残る者なし、斯る失敗の後に至り、何の面目か復た江東に還りて死者の父兄を見んとて、自尽したるその時の心情を詩句に写したるものなり。

書き下し

敵に降りてその敵に仕うるの事例は古来稀有にあらず。殊に政府の新陳変更するに当りて、前政府の士人等が自立の資を失い、糊口の為めに新政府に職を奉ずるがごときは、世界古今普通の談にして毫も怪しむに足らず、またその人を非難すべきにあらずといえども、榎本氏の一身はこれ普通の例を以て掩うべからざるの事故あるがごとし。すなわちその事故とは日本武士の人情これなり。氏は新政府に出身して啻に口を糊するのみならず、累遷立身して特派公使に任ぜられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志達し得て目出度しといえども、顧みて往事を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。 当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを恃み、氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者は恰も見捨てられたる姿にして、その落胆失望はいうまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者若し霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。伝え聞く、箱館の五稜郭開城のとき、総督榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告せしに、一部分の人はこれを聞て大に怒り、元来今回の挙は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習として一死以て二百五十年の恩に報るのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等は我等の武士道に斃れんのみとて憤戦止まらず、その中には父子諸共に切死したる人もありしという。 烏江水浅騅能逝、一片義心不可東とは、往古漢楚の戦に、楚軍振わず項羽が走りて烏江の畔に至りしとき、或人はなお江を渡りて、再挙の望なきにあらずとてその死を留めたりしかども、羽はこれを聴かず、初め江東の子弟八千を率いて西し、幾回の苦戦に戦没して今は一人の残る者なし、斯る失敗の後に至り、何の面目か復た江東に還りて死者の父兄を見んとて、自尽したるその時の心情を詩句に写したるものなり。

現代語訳

敵に降ってその敵に仕える例は、昔からまれではありません。とくに政府が新旧入れ替わる際に、前政府の士人たちが自立の資を失い、食べていくために新政府に職を得るのは、世界の古今を通じて普通の話で、少しも怪しむに足りず、その人を非難すべきでもありません。しかし榎本氏の一身は、普通の例で覆い隠すことのできない事情があるようです。その事情とは、日本の武士の人情です。氏は新政府に出仕して、ただ口を糊するだけでなく、次々に昇進して特派公使に任じられ、ついには大臣にまで昇りました。立身出世の志を遂げてめでたいことですが、振り返って往時を思い起こすと、情に堪えないものがあるはずです。 当時、決死の士を集めて北海の一隅で苦戦を戦い、形勢振るわずついに降参したのは、やむを得ないことです。しかし脱走した諸士は、最初から氏を首領として頼み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したのです。その首領が降参するというのですから、たとえ同意する者があっても、同意しない者は見捨てられたようなもので、その落胆と失望は言うまでもなく、まして既に戦死した者はなおさらです。死者にもし霊があれば、きっと地下で大いに不平を鳴らすことでしょう。聞くところでは、箱館の五稜郭が開城するとき、総督の榎本氏から部下に内意を伝えて共に降参するよう勧告したところ、一部の人はこれを聞いて大いに怒り、もともと今回の挙は戦勝を期したものではなく、ただ武門の習いとして一死をもって二百五十年の恩に報いるだけだ、総督がもし生を望むなら出て降参せよ、我らは我らの武士道に斃れるのみ、と言って憤戦をやめず、その中には父子ともに切り死にした人もあったということです。 烏江水浅騅能逝、一片義心不可東とは、昔の漢と楚の戦いのとき、楚軍が振るわず、項羽が逃げて烏江のほとりに至ると、ある人は、なお江を渡って再起する望みがないわけではないと言って死を思いとどまらせようとしましたが、項羽は聞き入れず、初め江東の子弟八千を率いて西に進み、幾度もの苦戦で戦没し、今は一人も残っていない、こうした失敗の後に、どの面下げて江東に帰り、死者の父兄に会えようか、と言って自害しました。その時の心情を詩句に写したものです。

解説

榎本批判の核心です。敵に仕えること自体は古今ありふれた話だと認めたうえで、福沢は、榎本は部下を率いて戦い死なせた首領だから事情が違うと述べます。五稜郭で降伏を拒み斬り死にした者たちの逸話と項羽の烏江の故事を重ね、責任ある立場の者が生き残って栄達することの重さを突きつけます。プロジェクトに部下を巻き込んだ責任者が失敗後にどう振る舞うかは、現代の組織にも通じる問いです。ただしこれは福沢の側から見た筋書きで、榎本の事情には別の見方もあり得ます。

この章句が説くこと

榎本武揚五稜郭責任首領項羽烏江

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